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2025/08/02

演出ワークショップ

本レポートでは、伊藤拓也さんを講師に迎え、2025年8月2日に開催したワークショップ「免罪符としての演出ワークショップ」の様子を振り返ります。


会場となったのは、京都市左京東部いきいき市民活動センターの多目的ホール。体育館のような空間です。午前10時、朝の陽光のなか、15人ほどの参加者とともにワークショップが始まります。

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まずは講師の伊藤さんの自己紹介。人の集まりそのものとしての演劇や、社会課題に取り組む演劇の使い方などに関心を持ち、これまで活動してきたとのこと。

そして告げられたのは、ある程度の才能を要する劇作に比して、「演出は経験を重ねれば誰でもできるようになる」ということ。ともすれば特殊な技能として言及される演出への見方が軽やかになる幕開けです。

続いて、参加者全員で輪になって体操の時間。

 

特徴的なのはその進行の仕方です。ひとりが体操の指示を出し、ほかの全員はそれに従う。区切りがついたら指示役を交代していく。

 

柔軟したり、激しく体を使ったり、寝そべったり。体操の種類はもちろん、どのようなことばを用いて指示をするのか、どのくらいのあいだ続けるのか(指示役がこれで充分と宣言しない限りその体操は終わりません)が指示役によって違いを見せます。

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演出というのは、一般的に、【“演出家”が“俳優”のパフォーマンスのしかたやその環境についてオーダーを提出する営みである】と表現できるでしょう。その意味で、この体操はまぎれもなく演出のひとつの形態であったと言えます。

 

いわゆる演劇(いわゆる演劇?)における演出との違いを挙げるならば、演出家=指示役 自身も、そのパフォーマンスを実践して 俳優=指示され役 に提示して見せるという形式だったでしょうか。

 

私が指示役となったとき、自らも体を動かしながら、その動きを他人にさせ続けることの苦み、のようなものを味わい続ける時間となりました。この動きは、他の人にとって心地よいものとなっているだろうか?ぎゃくに指示役が他人に渡った時は、その人が自らの苦みをいかに受け止めようとしているのかに注目したくなりました。

体操回しが1周おわると、次は2周目に入ります。ルール【good & new】が追加されます。指示役は体操を指示しながら、きのう経験した【よいこと】【あたらしいこと】をひとつずつ話す、というもの。これを読むあなたは、そう聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。

自らの生活のどんな部分にいかなる価値を見出し、それをどう共有するのか。1分以内に話すという制限もあいまって、指示役にはプレッシャーがかかり、他の人はそれをわくわくしながら待ち受ける。1周目とはまた違った感覚です。

 

この体操回しが終わったあかつきには、身体も場の緊張もどことなくほぐれていたように思います。各人の声と、表情と、生活と、そして演出=指示の人柄がなんとなく共有される。すぐれたワークショップの導入だと感じます。

 

伊藤さんは次に、各団体が普段稽古場で行っているワークをそれぞれ紹介して実践してほしい、とオーダーします。紹介されたのは、ウインキー、瞑想、エチュード、竹内敏晴の声かけワークなどなど。

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手順の説明や進行は各団体に一任されます。こうしてレポートを振り返って書くと、集まりに対して指示を行う、という共通点を体操回しとの間に見出すことができます。

 

なお、この時間のあいだ、伊藤さんは指示役の団体に対してところどころ(グループワークの人数、ワークのランタイムなど)指示を出していたことを付記しておきます。

そうこうしているあいだに、時刻は13時に。1時間のお昼休憩をはさんだ午後からは本丸、クリエーションと上演を行うことが伊藤さんから告げられ、しばし解散です。

 

近くのスーパーで買い物する人、弁当を持ち込む人、喫茶店でランチする人、さまざまでした。

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ワークショップ再開後、まず伊藤さんが紹介したのは歩みを合わせるワーク。

 

数人で輪になり、まず誰か1人だけが一歩を踏み出します。その後、こんどは誰か2人が同時に一歩を踏み出します。同時に踏み出す人数をひとりずつ増やしていき、全員があわせて一歩を踏み出すことができれば、ゲームクリア。

しかし、たとえば2段階目にはちょうど2人が踏み出すべきですが、そこで1人しか踏み出さなかったり、3人以上踏み出してしまったら、最初からもう一度始めなければなりません。

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身振りや発声は禁止されています。つまり、誰かが踏み出そうとしている、その絶妙な空気をつかみ、歩みを合わせたり踏みとどまったりすることが求められます。もちろんなかなかうまくいきません。トライを何回も重ねるうちに、踏み出す順序に慣習のようなものができたり、あるいはそれが崩れたり。

 

伊藤さんからは、「自らの身体のノイズのようなものを意識して、それが他人を動揺させるので、なるべく取り除いていくように」というアドバイスが途中で投げかけられます。

 

自らの身体と、他者の身体に意識を向ける。見ること、見られること、への集中。次第にクリアに至るグループが出始めますが、私がいたグループはなかなか成功することができず。

残り5回のチャレンジにしてほしい、と伊藤さんが設定し、しかしそれでも失敗が続き、これでラストというチャレンジで、見事クリアを迎えることができました、その最中の澄んだ緊張感とクリアに至った瞬間の充実と言ったら、これまでに私が出演してきた舞台で行ったパフォーマンスにもひけをとらず劇的であったという感覚でした。

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なにがしかのルール=戯曲 に関してともにトライしている人々=俳優 がおり、それを見つめる人々=観客 が居合わせるという構造を見て取るなら、このワークの場合、演出にあたるものはなんだったのでしょうか。

 

「歩みを合わせるワークをしましょう」という、最初の伊藤さんの提案だったでしょうか?「いまのは惜しかったね」「ごめん自分の責任だ」という、メンバー間で無数に交わされあったこまごまとしたやり取り、あるいはつい漏れる嘆息や諦めない眼差しだったでしょうか?

 

なお、伊藤さんの後日談ですが、午前中のワークショップの様子を見て「お互いに対してもう少し耳を澄ませあう準備が必要だ」と思い、昼休憩のあいだにこのワークを急遽やることに決めたそうです。

そしていよいよ本丸。クリエーションと上演の時間です。伊藤さんから、谷川俊太郎の詩「わかんなくても」が配られます。

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わかんない 谷川俊太郎

わかんなくても

みかんがあるさ

ひとつおたべよ

めがさめる

 

わかんなくても

やかんがあるさ

ばんちゃいっぱい

ひとやすみ

 

わかんなくても

じかんがあるさ

いそがばまわれ

またあした

この詩を3分ほどの上演に仕上げてください、とのオーダー。いくつか条件があります。まず、3人ずつのグループに分かれること。3人全員がパフォーマンスすること。テキストは改変せず一言一句発話すること。子どもが見ても楽しめる上演にすること。準備の時間は20分。

演出の経験がある人(演出の経験?)を少なくともひとり含んだ3人ずつのグループがつくられ、創作開始です。じつは昼休憩の直前、これと同じ3人で「演劇/演出とはなにか」というテーマで話をする時間が設けられていました。

 

少なくとも私がいた班ではまったく話が尽きず、設定された時間内では到底まとまることがなく。詩の上演の準備時間20分というのも、同様にかなり短い。

 

まとまらない。演劇はなんのためにするのか、自らにとって、自らの周りにとって、あるいは社会や世界にとって?演劇はどのようにするのか、そもそも戯曲とはいかなるもので、それを上演するというのはどういう営みなのか。いかなる上演がよいものなのか、あるいはよいものを演劇でめざすとはどういう意味を持つのか。

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こういったことには、各々の考えがあります。それをたがえる者同士で、ひとつの上演をつくらねばならない。そこには必ず葛藤があり、衝突があり、吐き出される意見と飲み込まれる意見があります。

 

それでもひとつの上演をつくること。それがいったいどんな経験だったのか、私にはまだ整理がついていません。ワークショップというものが、いわゆる創作として思い浮かべられるものに比していくばくか練習のような意味あいを濃くもつのだとするなら、あれはいったいなんの練習だったのでしょうか。

 

「わかんない」なかでも手を伸ばし取り合おうとして披露された上演は、それぞれのグループでとても異なった様相を呈しました。身体の使い方、発話の方向、観客に対する位置取り、パフォーマンスするもの同士の関係性。

 

すべての班の上演が一通り終わったあとは、上演の準備の過程がそれぞれの班から共有される時間も設けられました。こうした一連は、私にはとても心地よいものに思われました。

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演劇というジャンル、もっと広く芸術というジャンルには、あるいはそもそも人類の営みには、現在に至るまで積み重ねられてきた先人たちの思索と試行錯誤が存在します。それを知り、引き受けることを検討することで、表現は力を持つのだと思います。

 

一方で、それを試みようとしている私たちは、常に途上にいます。途上にいるからには、途上の現状が最大限の表現なのは避けようがない。それでも、それを悲観することなく、まずはそろりと一歩を歩みだし、それを受けた横にいる者の反応に耳を澄ませる。それはまったくもって自らと違うし、何度も間違えるけれども、間違えたならば、改めて一歩を踏み直し始める。

 

途上にいるからこその試みを、横にいるものとの違いを味わいながら、まずは続けてみること、というのが、演劇をやるにあたっての、あるいはそれ以上のなにかの練習だったのかもしれません。

 

ほかにもう一つ、グループで詩の上演、最後はひとりずつ短歌の上演を行い、最後まで高い熱量のまま、8時間にわたるワークショップは幕を閉じました。

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帰りがけ、伊藤さんはおみやげとして、いくつかの詩と、2025年度のKYOTO EXPERIMENT共同ディレクターによる往復書簡を配りました。ペルシャ料理店での打ち上げのさなかには、ベリーダンスショーが始まりました。

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(執筆:熊澤洋介)

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