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KSTF2020

審査員講評

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5名の審査員の方々から講評文をいただきました。

//審査員のプロフィールはこちら

谷賢一 (劇団DULL-COLORED POP) 

作家/演出家/翻訳家

 

沙羅恵慕『PIN』

思春期と言うか青春と言うか、モラトリアムの終わり、自己形成の最後に関する、現実的だが微妙な心理を描こうとしているのは好感が持てる。が、人物造形が甘く、主題が伝わり切らない。書きたいことが伝わりきっていないはずなので、もっと厳しい観客の目にさらされることで成長すると思う。転換に工夫がないのは残念。音響プランとオペが細かく仕事をしているのは良い。

 

共通舞台『こおりに立つ』

出だしや設定は面白そうだったし、興味を惹かれた。しかしその後の展開が弱いし、伝わってこない。頭だけで書いた感じがする。主人公の感情や生理が見えてこないのが隔靴掻痒であった。遺書を書いているだけのシーンは本当にただ退屈なだけで、こういう解体的な演出はもう古いと思う。また、最後の詩を読む部分は音が揺れ過ぎていて何を言ってるのか全くわからなかった。しかし随所に作り手の鋭利な感覚や美学、詩情を感じるところはあったので、より挑発的でcutting edgeな方向に進むといいかもしれない。

 

春泥み-harunazumi-『メーデーメーデー -canary in the coal mine-』

台詞・設定に謎や魅力・背景を感じさせるところが多々あり、開始早々、興味を引いた。しかしその後、次々新しい設定が出てきて際限なく世界が広がり続け、観客としては置いていかれる感じがした。これは私の信念だが、設定で興味を引くことはできるが、あくまでの演劇のキモは関係で見せる面白さだ。三人の人間関係や感情についてもっとフォーカスして、場合によってはもっとシンプルに書くことができればぐっと良くなると思う。優れたSF作品は一つの設定だけでたくさんの人間の感情や心理を炙り出す。そういう作品を参考にするといいかもしれない。

 

劇団FAX『まばたき』

基本的なことではあるのだが、照明と音響のプランがしっかりしており、きっかけや変化、タイミングがきちんと作り込まれているのが大変好印象。演劇は芸術であると同時に芸能であり、文学であると同時にエンタメでもある。「楽しませるもの」として見やすく工夫・配慮されている点が多かったので入りやすかった。ただしその分、全体的にアングラ演劇的と言うか、古典的な演出や台詞が多かったので新規性は感じなかった。しかし、あえて前衛を担わず王道を行くのも一つの決意であり、芸道である。より身体性やケレンを打ち出した方向へ伸びていけば、故きを温めて新しきを知る、未知の彼岸へ辿り着くこともできるかもしれない。

 

ゆとりユーティリティ『満塁デストロイ』

演じ分けのみならず効果音からBGMまで全部自分一人でやる強引さ、力技にもほどがあるが、それが逆に面白い。随所に溢れ出す馬鹿馬鹿しさ・滑稽さは大変好印象だった。ただし40分を演出しきるという意味ではやや一辺倒だったか。右手がサメになるというアイディアも荒唐無稽で優れている。「何で野球場に壺があるんだよ」みたいな細かい粗さすらも魅力のうちに思えた。これで鉄板の爆笑ポイントがあったり、ラストの展開にもうひと工夫あったりすれば、エンタメ作品としてより完成度が上がったと思う。

 

あたらよ『会話劇』

えっちでゲスい心理や関係を率直に捉えた会話は力があり、台詞にも美学が感じられて好印象だった。作者はきっと文章を書くのに向いている人だろう。作者がこじらせてる感じがするのが面白い。難点をあげると全体的に表現がちょっとポエム過ぎる。伝わらない人には全く伝わらないかもしれない。また、冒頭の演出は面白かったし、小道具の使い方には工夫と意図が見られて効果的だった。しかし全体を通してみるとステージング(ミザンス)にもうひと工夫あっても良かったか。良くも悪くも作品のスケールが等身大である。

 

劇団トム論『"The Students"』

とあるプレゼンテーションの様子を見ている、というか見せられている感じがして、どう興味を持っていいのか全くわからなかった。議論の内容がそれこそ東浩紀さんの本くらい知的に面白いものだったらまた話は変わってくるが、内容も薄く、あえてその薄さを表現しているのだとしたら、私という観客はそこに興味が持てなかった。声も小さいし後ろを向いて喋ってるから、中盤以降は人によってはほとんど聞き取れなかったのもつらい。形式における冒険、新しい表現形式の模索をしていることはわかるし、意義はある。実験とはすべてが成功するものではなく、むしろ大量の失敗の上に成立するものであるから、試み続けて欲しい。

 

 

 

野村眞人 (劇団速度) 

演出家

 

沙羅恵慕『PIN』

サークル、恋愛、就活といった大学生の葛藤を描いている。言葉を発したり動いたりすることで生まれる、とあるシーンの時間と、場面転換など作品を進展させるための形式的な時間のバランスがうまくとれていない印象を受けた。見せたいシーンを絞り場面転換を減らすことがまずは良いのではないか。また、舞台美術としてのキューブは作り手側にとっての汎用性は高い反面、観客にとってはただのキューブでしかないというか、見立てることにも限界があるように思った。

 

共通舞台『こおりに立つ』

劇場が爆破されるまでを過ごすという作品内部のフィクショナルな時間と、それを見ている観客が過ごすアクチュアルな時間を、5分間の遺書の執筆や砂時計の設置などといった計測可能な時間を通して同期させるという巧みな作品だった。また、カメラに向かって話すという強固な発語対象を設定することで、配信というフォーマットでも見やすいように整理されていた。しかし、形式的なデザインが巧みであっただけに、その上で何を見せるか、何を語るか、という作品の表情とも言える部分が片手落ちになってしまっていたように感じた。せっかく「爆破」という状況を作ったのだから、些細なことで良いから作家にとって本当に切実なことをぶつけて欲しかった。

 

春泥み-harunazumi-『メーデーメーデー -canary in the coal mine-』

この作品は、全体を通して作家にとって切実なことを扱っていたように感じた。前半と後半でかなり異なる印象を受けた。前半、戯曲の言葉を舞台上に置き換えて見せる手つきがとても面白く、耳に残るセリフも多くあり、見せることと語ることのバランスがとても良かったと思う。何も語らずにいる俳優など、それぞれに固有の雰囲気ともハマっていた。一方で、語り手が増える後半からは、舞台上のトンネルに象徴されるように、作品の奥に向かって物語を大きく展開させていくが、この時に、語り一辺倒の見せ方になってしまっていたと思う。語りで飛躍するというよりは、語りで錯綜してしまっていた点が惜しまれる。また、舞台美術や小道具といったモノに対するこだわりがもっと感じられると良かった。個人的には、最も再演を望む作品。

 

劇団FAX『まばたき』

古典的な内容や手法ながら、全体を通して勢いとユーモアのある作品で、相当な情報量と演出の手数があるにもかかわらず40分という規定の上演時間によく収めていた。ただ、配信という上演の形態への変更のせいもあるだろうが、セリフがこちらまで届かず、ツルツルと流れて行ってしまう箇所が多くあったようにも感じられる。そのため、言葉や動きが予定された展開のためだけのものに見えてしまうことがあった。しかし、個人的な希望としては、さらに勢いを増すようなかたちで、観客の視覚や聴覚の快を追求するような作品を作り続けてほしいと思った。

 

ゆとりユーティリティ『満塁デストロイ』

このドラマは、どこにでもいるような会社員の手に、唯一無二のスター野球選手が憑依してしまうという、ともするとチープなファンタジーになってしまいかねないものであったが、うまく落とし所を見つけられていたと思う。最初こそ大きく飛躍するものの、そこからの展開、飛躍した先の着地点が非常に現実風刺的である点が特徴的な作品だった。そうした風刺の対象となるようなありふれた現実(例えば電車での通勤など)も、今では笑えない現実になっているというテーマもあるように感じられ、そのしたたかなこだわりに好感を持った。

 

あたらよ『会話劇』

恋愛という普遍的なテーマをめぐる複数の視点や関係性を、ババ抜きやジェンガといったゲームをプレイしながら語ることで描出していく作品で、人物の配置の関係もよく考えられていたと思う。人物像に関して紋切り型の域を出ず、また、個人的には、ババ抜きや、ジェンガ、ドミノといったゲームが象徴する恋愛関係のダイナミズムが雄弁だったため、俳優が必要以上に喋り過ぎてしまっていると感じられつつも、総じて完成度は高かったように思う。下手の椅子は黒い方がよかった。

 

劇団トム論『"The Students"』

ゼミか何かの、第3回目の発表で行われている議論をそのまま見せるような作品。特に何かが起こる訳ではないのだが、その非劇的さが徹底されていた点と、中間発表という過渡期的な状況を題材にした着眼点が良かったと思う。リモートで議論に参加している女性を除き、舞台上の人物が全員背を向けているという構図も、画面越しの観客を自然に議論の場に巻き込むような効果を生んでいた。通常の演劇の規範を脱する可能性を予感させた。内容的にあと一歩、日常に対する批評の視座が感じられると良かったように思う。

 

 

 

 

 

野村有志 (オパンポン創造社)

劇作家/演出家/俳優

 

沙羅恵慕『PIN』

理想と現実の狭間。劇中の演目と同じく、異なる生き方の中で揺れ動く2人とも1人とも言える女性の物語。出演者数の問題等で難しいかと思いますが、冒頭に行われる物語のフリとも呼べるシーンがもう少し華やかで喜びに満ちたモノになれば全体が活きるのではないかと思います。

場転を一箇所を除いて全て明転にしてる事については、全てに暗転挟むと単純に見辛いってのもあると思うのですが、明転にすることで理想と現実の境界線がボヤけて地続き感があり良かったです。でもどうせならば照明変化すらしない等、もっと振り切ってもと。勿論、今回のも実際に物語は進み、人物の蓄積はみれるのですが。

人物造形としては、布谷と井ノ上が互いの存在意義に沿った点描的な演技が物語を分かり易くしていたと思います。なんだったら、愛美と亜衣の生き方の振り幅の指標として強めても物語としては伝わりやすいのではないかと。急いで訂正しておくと記号化した方がいいと言う訳ではありませんし、相対的な価値観の中で揺れる女性の揺れ始めを明確に示す事で、その後の混ざり合う混沌がより良くなる気がしたと言うことです。全体的に惜しい印象がありました。

物語全体としては、学生だからこそ向き合って描けるものであり、人魚姫のメタファー含め、個人的に好感を持ちました。生き方の選択をする際に本来の自分を殺すような感覚や、あらゆる基準を失い、無自覚に自己でなく他者に乞うことを含め。

諸事情により、直前で役者が1人降板されたのを視聴後に知りましたが、それを一切感じず楽しませて頂けました。

 

共通舞台『こおりに立つ』

1人芝居。

男は気付くと劇場に閉じ込められており、30分(22分)後にココは爆発するとメモ書きがあったと話す。その事実を映像を見ている僕ら観客/視聴者に語りかける所からはじまる物語。この作品は、本演劇祭が無観客映像配信と決定後に、脚本、または演出を再構築したのか、それとも新たに一から作り直したのか。「満塁デストロイ」にも一部配信である事を意識した演出が取り込まれていたが、本作品は全編配信を前提に創られていた。タイトルからも判る通り、今やいつ崩れるとも判らない、頼りなく危うい場所に立ち、劇中に差し込まれた宮沢賢治からは自身の存在すら儚く脆い心象を想起させる。爆破までの22分と言うのは、シンプルに学生生活を終える22歳を指しているのなら、劇場を舞台にしている事でより残された演劇人生を描いてる様にも。

今の彼自身の心情を等身大に描いてるのは伝わるし、ラストのモニターに映る自身への破壊や、その後のループに決意とも呼べる意思も感じた。劇中何度も死にたくないと言いながらも、騒ぐわけでも、助けを求めるわけでもなく、それどころか淡々と受け入れてすらいる彼自身に共感にも似た気持ちを持てはするが、作品を楽しめたかと言うと難しいところ。しかし彼と同世代の方々の感想に興味を持てる作品であり、舞台表現の今後を見据えると面白い試み。その点では非常に興味深く、楽しめました。

 

春泥み-harunazumi-『メーデーメーデー -canary in the coal mine-』

誤解を恐れず言うと、今回の中で、観劇後に最も演劇を見た気がしたのはこの作品。

今から35年後の物語であるものの、置かれてる状況があまりにも今と地続きなので、今を感じざる得ない。勿論、作者の意図はそこにあるのだろうけれど、今だけでなく、昔や、異国や、思想含めありとあらゆる価値観が混在した世界でもあり、今日の常識が、明日の非常識である今だからこそ、その混沌さにより今を感じました。

全てが監視下に置かれ、芸術すら奪われた抑圧された世界。そんな世界で他者と交わらず暮らす、白い服を着た"ゆり"という名の女性は、その名の通り純潔であり、社会に取り込まれた男は、ゆりとは対照的に穢れている。そこへサブタイトルにもある炭鉱のカナリア/金糸雀が訪れ、語り出す。いや、金糸雀の語りは鳴き声だろう。それは危険の知らせる鳴き声。

この物語には一縷の希望すらない。男が2人の新しい家へと繋がると話すトンネルにすら。

この世には、本当の意味で断定できるモノなど一つもなくて、ないからこそ人は悩み苦しむのだと思うのだけど、それらの殆どは生と共にであるはず。でも、この物語は常に死の香りが漂い続ける。多分、多分だけど、作者には現実世界がそう見えていて、誰しもがカナリアなのだろう。そしてそれが正しいのかも含め問い続ける。

能天気に生きる僕にはなかった価値観だったので、興味深く観れました。

この作品のあらすじにも添えられており、劇中でも語る「真実は知ろうとすればするほど遠ざかり、隠せば隠すほど迫り来る。」まさにそんな物語。他には、どんな作品を創られているのだろうか。

 

劇団FAX『まばたき』

夢と現実を行き来しながら、視力を失い、影しか見えなくなった男の記憶を軸に、怒涛の勢いで展開していく物語。セリフのテンポもさることながら物語も目まぐるしい勢いで展開していき、後半になるにつれその勢いは増していく。正直、聞こえないセリフが多々あり、それは配信であることも要因の一つだと思うのだけど。随所に小ネタが挟まれていたり、それ以外のセリフも言葉自体が面白く、興味深いものも多かったので勿体ない。

なのだけど、途中からこれ演劇ではなく音楽ではないのかと思えてきて、ジャンルで言えばパワー・ポップかな。そう思えば思うほど、AメロB メロの様に、人や意味合いは変われど同じシーン/展開が繰り返されることや、サビの様に少女が現れるところなど、戯曲構成が歌詞構成のようで、歌わない音楽劇みたいで。

今回は上演審査なので、戯曲は評価外ではあるものの、歌詞を読み返す様に戯曲も読みたくなる作品でした。

ただ、音楽のようだと思いすぎたからかも知れませんが、見せ方にもう少しメリハリがあればより良かったのではないかと。現時点でも勿論あるのですが、もう少しだけでも静と動を明確にすれば、ラストシーンのようにシーン自体が映えるのではと思いました。

どうかこのまま突き進んで下さい。楽しませていただきました。

 

ゆとりユーティリティ『満塁デストロイ』

1人芝居。

ある日、鮫島(有名野球選手/球団:半身シャークス4番バッター)と山田(有能サラリーマン)がぶつかった衝撃で、鮫島は山田の右手になってしまう。そしてなんと山田の右手は、鮫の姿をしていたのだ。しかし、その鮫の姿は山田にしか見えず、誰にも信じて貰えない。そんな山田と鮫島(右手)の物語。

ここまで書いてなんの話か自分でも判らないのだけれども、全てが荒唐無稽に物語が進んでいく。のだが、作者はこれは敢えてそう創ってるのだろう。登場人物のピンチもチャンスも強引な展開の上に描かれて、登場人物の悩みや苦悩に一切感情移入が出来ず、観客からすると滑稽にも映りかねない物語と登場人物を観続ける事になる。のだけど、それは僕らの人生にも言えるんじゃないか。僕らの悩みや喜びの殆どは他人から見れば些細な事だし、解決策も本人だけが葛藤してるだけで、劇中と同じくいとも簡単なものなのかも知れない。そんな風に観ると悩みを抱える人に「大丈夫だよ」と寄り添う優しい物語に思えて好感を持ちました。単純に「ずっと何してんねん」と笑えたし。そしてなにより、一人で演じる意味のある作品であった事が良かったです。それは一人芝居には必須と個人的に思うので。

どうかこのまま突き進んで下さい。

 

あたらよ『会話劇』

まずこのシンプルなタイトルに痺れる。全てが集約されてて無駄がない。

ジェンガであったり、ババ抜きであったり、ドミノであったり、関係性を表すその表現方法に目新しさはないのかも知れないけれど、物語の底上げとしてこれ以上ない効果を発している。舞台表現である意味も込みで。

今回は40分と言うこともあって、異性関係に焦点を当てて描かれているけれど、世界を巻き込むほどのスケール感の長編も観てみたい。狂う歯車のサイズはこのままでいいけれど、狂った歯車の先で影響受ける大きな歯車を想起する程度でもいいので。そしてその時、何がどう崩れるのか。これは個人的な願望としてでもありますが。

それ以外に絞り出して何かを言わせてもらうなら、描かれてるものが普遍的な対人関係に終始するので、新しい価値観の提示があればより良かったのかもとは。でもこれはあくまで絞り出して、ですが。

一つの演劇として完成しており、言えるのはそれぐらい。非常に楽しませて貰いました。

 

劇団トム論『"The Students"』

とある場所で学生達が、「たくさんの学生を 1 ヶ所に集めてびっくりしたい」を実現する為に「学生とは何か?」を語り合うところから始まる。

登場人物は、そこへ来た男女5名と、リモートの参加者として1名の女性。そこで登場人物達は当事者でもある学生(今)を「誤配」という言葉を軸に語り合う。

「誤配」という言葉は東浩紀氏からの拝借だそう。文字通り「誤って配られる」の誤配。学生だけではないが、学生には、思ってもみなかった出会いが多くあり、それで自分の考え方が変わったりすることができる時期であり、それはとても誤配的だと言う。

そこを出発点として各々が発言し、議論を交わすのだけど、僕の様な観客はただ、それを傍観し続けることになる。でも不思議なことに飽きることなく見続けることが出来た。舞台上に視聴者と同じくリモートでの参加者/出演者がいたことや、そこでの会話に人工物の香りが一切しなかったことで、視聴者である僕も傍観はしながらも、気付くと自身も答えを探しだし、もはや参加してたのだと思う。ノイズにならないセミの声は勿論、祇園祭だろうか、祭囃子の音が覗き見してる感覚を増幅させた。それほど舞台上にいる方々も自然体であり、「演劇とは」などと定義するのは野暮だが、所謂演劇と呼ばれるものではないものが目の前で行われていた。

なのだが、意見が対立するのは殆どの場合リモートの女性とであり、リモートだからこそ生まれる多様な距離感が今を感じさせるのはもちろん、リアリティを生み出し、その空気感がその先の展開への興味を途切らせることをしなかった。

結果的に「学生とは」の答えなんて「演劇とは」と同じく見つかるはずもないのだが、見つからないことが答えであると作品タイトルが教えてくれた様に、この作品は学生でない僕へも心地いい誤配をしてくれた。非常に楽しめました。

 

 

 

藤井颯太郎 (幻灯劇場) 

作家/演出家/俳優

 

沙羅恵慕『PIN』

とても楽しく拝見しました。ニヤニヤしながら観た。僕は特に【べろべろに酔っぱらって愚痴り続ける彼氏の顔面の上で破れた衣裳の手直しをする】あのシーンがとても好きだ。俳優達はそれぞれのキャラクターの熱量を維持し続け、人物間の温度差を面白く見せることに成功していた。出来ることなら劇場で、他の観客の笑い声の中、この作品と出会いたかった。

 演劇祭は舞台美術の立て込み時間や上演時間が制限されている性質上、大がかりな美術を組まず抽象的な美術での上演となる場合が多い。だから場所の変化をどう見せるか、少ない道具をいかに面白く使えるのかが鍵になってくる。『PIN』では6つの赤い箱を様々な形・配置に転換していくことで少ない道具で様々な場所を作り出していた。本作において特筆すべきは、音や光などの舞台効果をほとんど使わない“ドライすぎる転換”だ。物語を見ていたら唐突に会話が止まり、役を離れた役者が突然、淡々と舞台装置を動かす作業が始まる。この“ドライすぎる転換”を使い、物語を進行していくことで、どこからが作り物でどこからがリアルなのか境界を曖昧にし、観客を翻弄していた。この転換に対するドライさ、あるいは無頓着さはベルギーのTgSTANというカンパニーを想起させられ、演出の山倉佐恵子さんはそれと近い美的感覚を持っているのかもしれない。

この“ドライすぎる転換”はリアルとフィクションの境界を曖昧にし、観客に冷静な思考をもたらす反面、観客が物語へ集中するのを妨げ、混乱とフラストレーションを湧き起こさせる危険性をはらんでいる。ラスト付近、唐突に暗転(照明を消し行われる場面転換)を使用した際、着替えの時間が余りにかかりすぎていたので、もしかすると、全編を通して行われてきたドライな転換は狙って作られたモノでは無いのかもしれない、ということに気がついた。ドライな美的感覚を持つ演出家であれば舞台上で明るいまま着替えさせれば良いだけなのだから。そこで改めて作家や俳優、スタッフの【見せたいモノ】【隠したいモノ】が何なのかが気になるようになった。

 物語に全然関係の無い紙袋の一部がずっと観客に見える状態にあったり、衣装を破く際に実際に破けている音と破けている効果音がどちらも聞こえてきたり、彼氏は家でくつろいでるのに革靴をはき続けていたり、観客を混乱させてしまう要素が沢山あった。次回、作品を作る時には“どういう風に観られたいのか”“何を隠したいのか”を明確にして欲しい。そういったエゴを追求した先にもっと面白い創作の時間が待っているはず。

 日本の大学生は卒業と同時に何かを決断しなくてはならないと思っている人が多い気がしている。社会に出ることと、やりたいことを続けることは両立しうる。働きながら演劇を作ったり、誰かの演劇を観に行くだけでもいい。好きならば、人生の傍に演劇を置いて豊かな時間を過ごすのも悪く無いと思います。みなさんの次回作を楽しみにしています。

 

共通舞台『こおりに立つ』

 写し鏡のような作品だった。こちらが意地悪に観れば作品も意地悪に、親身に覗けば彼も親身になってくれるような気がした。だから、今回はあえて彼に親身になって観劇してみた。

 画面の中には唐突に死を突きつけられた男性が一人いて、『爆破されるまで、暇だからそれまでを見ていただこうと、』と緊張感の無い最期を過ごし始める。たしかに、大切な人に連絡することも出来ずに、ほんの20分死の際に時間を渡されたとしても、僕も暇になってしまうだろうと思った。彼からの電話はかかってくるが、どうやっても出ることが出来ない。僕に彼を助けることは出来ないのだ。

 やることもない彼は、好きな言葉を読みますと言って、宮沢賢治の一説を読み始めた。終演後、何故、賢治を選んだのか聞くと、作者の身体性を避け、身体性の薄い宮沢賢治を選んだと答えられた。実際上演では誰がこの言葉を発しているのか曖昧な空間が成立しており演出の狙いは上手くいっていたように思う。

 遺書を書く間5分程好きに過ごして良いと言われ、ジョンケージのような5分間を好きに過ごすことにする。劇場と違い拘束力はないので、携帯を眺めて観たりする。彼は外部と連絡をとることが出来ないのに、審査中の僕のパソコンには次々とラインがやって来る。

 最後の遺書を読み上げる。聞いてほしくも聞かれたくもないから音を切ってくれと言われ、素直に彼の望みどおり消音した。彼が最期の言葉を、遺書を無音で読み上げる映像を観ながら、死と言葉について考えていた。僕はあと30分で死ぬ状況下で、作品を作らない。きっと誰かに向けて話をしたりする。一人きりなら猶更、自分の言葉や、自分の中に残っている大切な言葉に縋るのも悪くないかもしれない。

 この作品を観ながら、様々な考えや困惑が身体中を巡った。それは禅のような豊な時間だった。ただその時間はバラバラに存在するにとどまり、劇や僕の脳内で積み重なることがないのがもったいなかった。観客を映し出す鏡だけが演劇の面白さではない。時には喋り人を迷わせる魔法の鏡のように、もっと強烈に観客を翻弄して欲しいと願った。

 

春泥み-harunazumi-『メーデーメーデー -canary in the coal mine-』

 僕の母はテレビを流しっぱなしにするのが嫌いな人だった。自分が望んで“見たい番組”を見ることは出来たが、流れてきたものを流れてきたまま見ることに対して厳しい人だった(まだ生きてる!元気!)。自分で見たいモノを選んでいくうち、だんだんと見るものが減っていき、実家を離れて7年、今ではTVを見ることは殆ど無い。

 作品が始まると舞台上からプロジェクターの光が観客の方に射出されている(実際に客席に居ればより一層不愉快だっただろう)。舞台上には男女がおり、男が自分の家の家具を壊している場面から物語は始まる。

 物語の舞台は、人間が粘土の様になってしまう感染症が蔓延した世界。森の傍の家でひっそりと暮らす二人の男女。病に罹りながら、少しずつ粘土になってしまう元弾き語りの女。政府の方針に従い、数千人の感染者と共にトンネルを爆破した男。夜も深まった頃、小さな金糸雀(カナリヤ)が二人の部屋へやってきて、人の言葉で男が犯した過ちの数々を暴露し始める。

 感染症をはじめ、現在の世界を捉えた秀逸なモチーフが次々と配置されていく。中でも、男の狂気的な価値観に、僕は深い魅力を感じた。【数千人の感染者をトンネルごと爆破し埋めた男は、爆発によって粘土のような感染者が高熱に晒され、陶器の様に焼けている死体を見つけ、それらを材料に新しい家を建てたいと考えはじめる。】この狂気を追い込んで描いていく作者の執着心に、筆致に、作家として嫉妬した。

 俳優も印象的だった。阿僧祇演じる金糸雀は神秘的な演技で空間の緊張を高め続け、女を演じる山﨑星奈と男を演じる近江就成の二人の会話は、物語で描かれる時間の不穏な外側を、魅力的に観客の前にちらつかせていた。キャラクター達はごまかし、言葉をのみこみ、嘘をつく。キャラクターの価値観を多面的に描き出そうと試みているのがわかった。

 とにかく脚本の書き方が巧い。だが、情報を出し惜しみしすぎ、中盤が冗長になっているようにも感じた。さらに小道具などの細部へ対する美的感覚についても今一度見直して欲しいと思う。それらは製作環境を整えることですべて解決するはずだ。

 男女は最後、垂れ流され続けていた何も映ってはいないプロジェクターの映像を消し、暗闇の中静かな時間を過ごす。その時、【プロジェクターの映像が自分達に向けて40分以上流され続けていた】ことを観客は思い出す。最初の5分はあんなに不愉快に思っていた光にいつの間にか慣れ、情報を流されるまに受け取り、それが普通になっていたのだ。その瞬間、ほの暗い闇の中で、絶望的な森の傍と客席とが地続きになったような気がした。

 

劇団FAX『まばたき』

 僕はこういう変な話が好きだ。両目が見えなくなった男の瞼の裏には、黒蜥蜴と名乗る一人の女の姿が見える。男は医者の助手・アケチと共に、失われた自分の記憶と黒蜥蜴の謎を解き明かそうとする。やがて、傷ついた眼の硝子体→焼死体→黒蜥蜴の女へとイメージが変幻しき真実に近づいていく(それ故に、黒蜥蜴を追究する男は明智小五郎で無ければならなかった)。随所にちりばめられたユーモラスな台詞も好きだった。

 この作品を観て、野田秀樹の様だ、唐十郎の様だという人が現われたとしても、なんら恥じることなく、その一切を無視して欲しい。彼らから盗みたいものがあるのなら徹底的に盗み、つまらない部分があれば徹底的に拒みながら作品を作ればいい。彼らの手法は独特で、その手法を使えばすぐにノダだ、カラだ、と言いたい人達が現われるが、その手法で面白いオリジナル作品が作られるようになれば、もう、“オーソドックスな作劇法”の一種として受け入れてもいいのではないか思っている。彼の手法はただの手法に過ぎなくて、作品ではないと証明して見せて欲しい。

 そのためには、自分が何を面白く感じたのかを分析し、それが現代においてどう面白く見せることが出来るのかというしたたかさが必要になる。本作で言えば、“魅力的な意味不明”をもっと追求出来たと思う。無意味ことを意味ありげに、意味あることを無意味に見せるには、僕ら人類が無意識下で習得してきた情報伝達の為の“記号(コード)”を悪用する必要がある。声の高さや言葉の語感、身体が伝えるニュアンス、沈黙の長さ。その場にはいない観客の心理をもっと緻密に計算出来たはずだ。そしてこの劇団はそれが出来るだけの執念(情熱といっても良いかもしれない)を持っていると信じている。

野田さんや唐さんが居なくなっちゃったら、こういうお芝居は観ることが出来なくなってしまうかもしれないのは寂しい。だから、彼らが生きている内に、その手法を使って面白い作品を作り、【ノダ】や【カラ】というメソッドにしてしまおう。彼らが永いまばたきをはじめる時代のことを、今から考えておいても良いかもしれない。

 

ゆとりユーティリティ『満塁デストロイ』

エアコンの効いた部屋で1人、鮫のぬいぐるみが喋るのを見ながら「何見せられてるんやろ」と、四回ぐらい思った。それは悪口ではなく、物語がどこへ進んで行くのか皆目見当が付かなくても観てしまう程魅力的な物語だったということだ。本当に何を見せられているのかわからないまま一気に最後まで観てしまった。

 1人芝居は道具の見立てや演じ分け、リズム感が必要になる非常に難しい分野だが、表情と声をずらす等、すごく上手くやっていた。打ち込み音源みたいなチープな応援歌が聞こえる中、『1点決めるだけじゃ物足りひん!100周するぞ!1周したら1点、100周したら100点やろ!』と、何度も何度もグラウンドを回り続けるシーンがとても良かった。“さよなら逆転ホームラン”が本当に「さよなら」と「逆転」のきっかけになってしまうラストも、落語みたいで僕は嫌いじゃない。

 ただ、作家には頭から最後まで破天荒であり続けて欲しかった。四番バッターが鮫のぬいぐるみになり、サラリーマンの右手になってしまうという破天荒な設定はとても良かったが、終盤に向かうにつれて、大人しくなっていくのが勿体ないと思った。破天荒な車を開発したのに、下道を法定速度で走っている。きっとこの作家はもっと無茶苦茶なものが書けるはずだ。

 ラストシーンを観ながら別役実氏の『空中ブランコ乗りのキキ』を思い出していた。周囲の期待に応える為、自らの身を滅ぼして偉業を成し遂げるのだ。『満塁デストロイ』は世界の為に一人が頑張って一人が犠牲になる話を、一人芝居で描き切っていたのがとても良かった。観客賞、おめでとう。

 

あたらよ『会話劇』

五人の男女が三つの遊びをしている。ジェンガをしている男女、ババ抜きをしている男女、ドミノをしている男性。物語はゲームとは直接関係なく、恋人やセフレ、友人など多様な人間関係が構築される様とその崩壊を描いていく。

 この作品が最優秀審査員賞に選ばれた理由の一つは、「身体と言葉のズレ」を上手く利用している点にある。物語とは直接関係が無いゲームを、物語と同時進行することで、ゲームの為に繰り返される動作のすべてが全く別の意味を帯びてくるのだ。

 恋人達はジェンガを積み上げるが、ある時から、積み上げたモノの強さを試すように彼氏が疑い深くジェンガを抜いていくようになる。彼女は抜かれたものを積み上げて関係修復を図る。ジェンガが大きな音を立て崩れる瞬間、観客は二人の破局を直感する。身体から発されるメッセージと言葉の内容がズレている時、観客は脳内でバラバラに散った点と点を結び、発見に興奮し、より能動的に作品に向き合うようになってくれる。あたらよが持つ、点と点とを絶妙な距離感に配置していくバランス感覚は非凡なものだと思う。

 もう一点、この作品の演出で優れていたことがあった。それは「俳優に演じること以外の負荷を与えている」点だ。ただドミノを並べながら会話しているだけなのに、そこには“演じよう”という緊張とは全く質の違う、“これを(ドミノを)崩してはいけない”という物理的な緊張感が張りつめる。観客はその緊張感を物語と結びつけ、キャラクターが持っている“友情を崩してはいけない”という緊張感として受け取る。俳優にかかっている負荷とキャラクターが背負っている負荷が重なることで、リアリティのある場面が立ち上がっていた。非常に秀逸な演出だ。

 演出や俳優が秀逸だからこそ、物語に対して惜しく感じた点が二つあった。一つ目は説明が多すぎること。おそらく、観客は身体と言葉のズレに対して脳内で意味付けできる。直接言及されなくてもそれに気付くことが出来ただろう。二つ目は、出会ったことのない新しい価値観(=他人)や、僕の中にある言語化出来ないでいる言葉や価値観(=自分)に物語の中で出会えなかったこと。僕はこの作品を通して<他人>にも<自分>にも出会う事が出来なかった。恋人と別れたり、セフレと別れたり、友達に好きな子をとられる苦しさも確かに苦しいけれど、この作家にしか作れない苦しみをとことん追及して欲しい。ここまで書いたが、台本のすべてが全く悪い訳ではなく、台本の段階でこの演出プランが書き込まれていたのを見ると、この作家は演出的な感覚を持ちながら書くことができる稀有な作家なのだと思う。

 個人的に唯一、劇中でドキッとする瞬間があった。セックスの場面とLINEで会話する場面がスムーズに入れ替わった瞬間、セックス中でも他の男にLINE出来てしまうという状況のグロテスクさにハッとさせられた。普段認識出来ていない息苦しさを表に引きずり出してくれたような気がした。次の作品では是非、まだ言葉になっていない息苦しさ達を表舞台に連れてきて、それに抗う姿を見せて欲しい。応援してます。最優秀審査員賞、おめでとう。

 

劇団トム論『"The Students"』

 岡田眞太郎の『学生をたくさん集めてビックリしたい』というテーマの発表を聴くために学生達が集まり、車座になって議論を交わしている。三回目の発表らしいが、積み上がってきた議論はどこか気が抜けるような柔らかさで積み上がっており、その中に時たま、勉強したての誰かが発したような堅い単語が飛び交ったりする。東浩紀の著書から「誤配(予期せぬ出会い)」という言葉を持ち出して、学生が沢山集まれば沢山の誤配が生まれ、そこから沢山の刺激が生まれ、そして僕は沢山びっくりするはず、といったようなことを主張する岡田眞太郎。だからこそ沢山の学生を集める方法を探したいと結び、岡田眞太郎は発表を終えます。そして発表を聞き終えた一同は、質問パートへと移るのです──。

 きっと僕はこの作品を舞台で見ることが出来ていたら、声を出して笑ってしまっていた観客だと思います。勿論、岡田眞太郎達は真面目なのですが、議論を空転させる発言をする人間、主旨をずれてもその議論に乗ってしまう一同、質問になったとたん黙りこくってレジュメ見る風景などは、どれも生々しく、可笑しく、愛おしい。「びっくりしたい学生と、そいつをびっくりさせる為に頑張って話し合う人達が過ごす40分」ってまとめれば、いかに魅力的な作品であるか伝わると思います。

 議論が空転すればするほど蝉の声は大きく聞こえ、議論が積み上がらない時間が長ければ長いほど夏祭りのお囃子を練習する音が外から聞こえてくる。集中力が切れて『退屈な空間』がむっくりと浮かび上がってくる。

 この退屈な空間を観客に楽しんでもらえるかどうかで、この作品の評価は分かれる気がする。質問パートでは俳優が即興で質問をしておりそれに即興で返答をしている。台本に書かれたテキストを読み上げるよりも『誤配』が起こりやすい状況になるよう工夫されている。確かに即興、その場で出た言葉や仕草は面白いが、その回によって面白さにはムラが出来てしまうだろう。もしかすると稽古時の方が面白かったのかもしれない。ある一定の面白さを担保するための工夫が何か用意されるべきだったと僕は思う。

 とはいえ。劇場で上演していたら、気の抜けた発言を笑っていいのか、それとも真剣に受け止めた方がいいのか分からない観客達から、きっと“変な空気”が流れていただろう。その変な空気が観客席に充満するであろうことが予想できるから、あれが良くなかった、とかあまり言えない。ただ画面に映る学生達の小さな背中を見ながら、あぁ、僕らは沢山の人と直接あって誤配出来ないしマスクをとって車座になることも出来ないし顔すら知らない同級生も沢山いるのに、ディスプレイを隔てたこの世界では積み上がらない議論の上に蝉やお囃子の音が積み上がっていくを体感出来るのだと思うと、妙に羨ましく、妙に岡田眞太郎の名前を口にしたくなったりした。岡田眞太郎。

 

 

森山直人 

演劇批評家

 

総評

 今回参加した7団体にとって、コロナ禍のもとでの「オンライン配信」という、想定外の発表形態が、どのような体験を得たのかは分かりません。授賞式後の交流会で、皆さんとお話し出来た限りでは、皆さんの表情は、通常通りライブで開催された時と、あまり違いがなかったように思いました。いいかえれば、ライブであろうと、オンラインであろうと、皆さんが自分たちの作品に注ぐ熱意は不変のものであることを感じ、久しぶりに「コロナ以前と変わらない何か」に出会った気持ちがしました。

 とはいえ、「オンライン」であることの制約、というものがまったくなかったわけでは無論なりません。私の感覚でいうと、今回の審査でもっとも難しかったのが、役者の演技に関する評価でした。やはり、役者の演技は、引き一本のカメラでは、到底推し量ることはできません。その点で、役者にパワーがあった劇団のほうが、もしかするとハンディを負うことになったのではないかという気がしています。

 全体として、今回の7団体は、どの団体も独自の世界をもった個性的な作品であったことは間違いない反面、率直にいって、突出した作品もなかったように感じました。今回、劇場からの特別賞を含めて、7団体中4団体に何かの賞がわたったことが、何より結果として「票が割れた」ことをよく表していたと思います。今回、大賞を取った「あたらよ」は、上演で示された完成度というよりは、むしろ今後の可能性という点で、評価が集まっていたように私には感じられました。逆にいえば、今回賞をとれなかった団体も、ほぼ僅差というほかはなく、ちょっとしたはずみで、賞にからんでいた可能性もあります。

 というわけで、私が皆さんにアドヴァイスしたいことは、(たしか以前にこの演劇祭の審査員を担当した時にも同じようなことを申し上げたような記憶がありますが)今回の結果は、さっさと忘れて、自分たちの作り出そうとする世界をより研ぎ澄ませることに力を注いでください。私は学生演劇祭の意義をまったく否定する者ではありませんが、同時にまた、学生演劇祭は学生演劇祭でしかないことも、まぎれもない事実です。とくに、これから演劇や舞台芸術を続けていこうとしている人にとっては、けっして「よい思い出」などにすることなく、自分たちの追求している世界が作品としてより深く実現すること(「作品」であることに根源的な疑いを呈するプロジェクトも含めて)に向けて、腹を括って頑張ってください。

 

沙羅恵慕『PIN』

 シンプルな舞台装置は見やすかったです。内容も、「演劇か就職か」という、学生にとっての等身大的な悩みを扱っている分、観客も共感するところが多かったかもしれません。4人の俳優のアンサンブルはまとまっていたし、照明や音響も、シンプルな装置に見合ったものでした。舞台装置として用いた赤い6つの箱は、高校演劇などでもよく使われる手法でもありますが、場面転換でどんどん組み替えられていき、作品の演劇的リズムを生み出すことに貢献していました。前半は小気味よく進んでいたのですが、後半になってややテンポが落ちた分、作品全体がやや間延びしてしまったところは残念でした。全体に、もう少し観客を、それも「自分たちの悩みを共有しない不特定多数の観客」を、もっと意識して作ったほうが、「演劇か就職か」というテーマも、より深まったのではないか、と思います。「さらえぼ」という劇団名は、私たちの世代だと、1990年代に起こったサラエボ紛争などをどうしても連想してしまいますが、なぜこの劇団名にしたのかも、もっと詳しく聞いてみたかったです。

 

共通舞台『こおりに立つ』

 今回の7団体のなかで、オンライン配信であることを強く意識して作られた作品のひとつでした。舞台の全景を撮るために据えられている引き一本のカメラが、この作品では、たったひとりの主人公が、観客に向かって語りかけるクローズアップの手段として活用されていました。人によっては「反則」と感じるかもしれませんが、私自身は、これはこれでよいと思いましたし、今日の「ZOOM演劇」の興隆(?)という時代の流れにあって、それを意識しつつ、明確に構造化された作品世界を提示していたことは、一定の評価に値すると思います。「この劇場は、22分後に爆破されることになっています」という空疎な呼びかけは、それ自体が世界の空虚を映し出す鏡となりえていたのであって、どうせそんなことなど起こらないことは、誰が見ても分かるにもかかわらず、自分で吹いたオオボラに徹底的に居直るその居直り方に、メタシアターとしてのリモート演劇を貫徹しようという覚悟のようなものが感じられたことはよかったです。難をいえば、この作品が提示していた「待つことの徒労」という主題は、サミュエル・ベケット以降、頻繁に取り上げられる題材なので、そのままでは観客の「想定内」に収まってしまうし、実際そうなっている部分もありました。撮影用のカメラをたたき割ったほうがよかったのでは、といった過激な感想も、交流会では交わされていたような気がしますが、厳密にいうと、物理的に「たたき割る」こともまた、「想定内」でしかありません。叩き割らずに、叩き割る以上の効果をあげる何かを見出すことこそが、演劇の醍醐味に他なりません。

 

春泥み-harunazumi-『メーデーメーデー -canary in the coal mine-』

 今回の7団体のなかで、最もスケールの大きな作品を目指そうという姿勢の強い作品だと感じました。設定はSFファンタジーですが、登場人物の言葉を重ねて世界を表現していくという意味では、正統的なドラマ演劇だったと思います。明らかに、現在のコロナ禍というアクチュアリティに対する批評を意図しており、コロナ禍を通じて拡大する監視社会の問題を正面から扱おうとしていた点は、十分評価に値すると思います。その上で、いくつか難点をあげれば、「炭鉱のカナリア」という比喩は、いかにも使い古された比喩なので、下手をすると観客に先回りされ、想像力をかえってそいでしまう、ということでしょう。「35年前の疫病がきっかけで、アートが規制されている世界」という設定は、フィクション度が高い分だけ、よほど説得力をもって書き込まないと浮いてしまいます。劇の文体も、正直なところ、まだ書きなれていない感じを受けました。物語の結論を急げば急ぐほど、劇は空転しかねない危うさを持っています。自分の書きたい世界を一度書き切ってしまった後、自分の書きたい世界など1ミリも理解しない他者の視線で、徹底的に自分たちの作り上げた世界を批評してみるべきです。今後に期待します。

 

劇団FAX『まばたき』

 単に「完成度」という点でいえば、この作品が最も完成度が高かったと言えると思います。俳優の演技やアンサンブルと、照明・音響のバランスは、すべてまとまって、この作品が描き出そうとする世界へと収斂していたと思います。一見かけ離れた伏線をいくつか用意し、言葉遊びなどを織り交ぜながら、「謎」が少しずつ明らかになっていく、という展開は、間違いなく、日本の伝統的なアングラ・小劇場演劇の定番の作り方であって、その点で新鮮味にやや欠けるところがあったのも確かですが、だからといって、そういう作り方で作られた作品のほとんどは詰まらないものにとどまっている以上、飽きさせずに最後まで見せることに成功していた点は、この劇団の地力の強さを感じさせるに十分でした。オイディプス的構造に収斂していくストーリー展開も、ありがち、と言えなくはないのですが、それ以上に一本の演劇上演として、やはり最後までスピード感が落ちることがなかったのは、劇団員ひとりひとりが、自分たちの作り上げようとする世界にとって、どの要素が決定的に重要なのかをよく理解していたことの現れだと思います。賞を取るか取らないかは、(本当に)この際どうでもいいので、自分たちの世界を、より深化させてほしい、と思います。その上で、演劇にとって「新しさ」とは何か、というかなり微妙で難しいテーマを、皆さんなりに掘り下げて、「答え」を見つけてほしいと切望します。

 

ゆとりユーティリティ『満塁デストロイ』

 とにかく一人芝居で、最初から最後まで押し切ってしまおうという潔さは、「演劇」というジャンルにこそ可能な特権であって、勇気をもってその可能性にチャレンジしていた点は感服しました。ほとんどナンセンス・コメディといってよい、シュールな魅力に満ちた設定で、それを関西弁の野球ネタでまくし立てていく、という発想は、間違いなく、「勝ちパターン」に乗りかけていたと思います。だからこそ、ぜひとも考えておいてほしいことは、この種のエンターテインメントは、現代日本においては、必然的に、世にあまたいる「お笑い芸人」との対決が避けられない、ということでしょう。キング・オブ・コントに集う芸人たちを一蹴する迫力のある作品を、せっかく演劇をやっているのだから、ぜひとも作ってほしいし、その場合、「コント」に寄せるのか、「物語演劇」に寄せるのか、という点は、もう少し作戦を練ったほうがよかったように思いました。4番打者が主人公の腕に乗り移る、という奇想天外な設定のわりには、筋のハコビがやや丁寧すぎたように感じました。役者のパワーは、こればっかりはライヴで、生の劇場で見てみたかったです。

 

あたらよ『会話劇』

 一見普通の台詞劇なのですが、よく見ていくと、次第に「普通」に亀裂が入っていく感じがして、興味深かったです。この作品の面白いところは、会話の具象性と、俳優のしぐさやミザンセーヌをほのかに貫く抽象性とが、緊張感を持ちつつ分離しているところです。同時にまた、戯曲の世界が、「恋人」や「セフレ」といった、登場人物の「関係性」に焦点をあてていることによって、舞台上に、関係性の幾何学模様が描かれていくような気がしたところにも、この作品の「実験性」が感じられて、好感が持てました。「性愛」という主題を描こうとしているところもよかったのですが、この点は、今後、さらに掘り下げることもできるのではないかと思います。登場人物は、学生くらいの年代に見えるのですが、学生が演じる作品だからこそ、自分たちの「学生」性を、徹底的に「引いた視点」で捉えなおしていくと、「若者芝居」の枠を踏み越えるスケールの作品へと、さらに進化するのではないか、と思いました。「関係性」を描くという点で、ひとつだけ気になったのは、舞台上に最初から最後まで守られる三角形の構図です。ある意味で、この配置は、登場人物相互の関係を見やすくすることにもなるとはいえ、下手をすると、やや説明的にも見えかねません。もっと大胆に工夫してみることも可能ではなかったかと思います。チャンスがあれば、ぜひいろいろ実験してみてください。

 

劇団トム論『"The Students"』

 この作品も、リモートであることを強く意識した作品になっていたと思います。共通舞台のように、直接的にオンラインであることに言及するのではなく、舞台中央にテレビ会議のモニターを据えて、それを取り囲む全員が、カメラのこちら側にいる私たち観客に背中を向けている、という演出は秀逸で、特に声を張ることもなく、淡々と「会議」が進んでいく様を見続けていると、私たちも会議の一員であるかのように錯覚されていく、というところが、この作品の醍醐味でした。東浩紀の「誤配」という概念は、ほとんど小道具以上の意味はなく、むしろ「学生がいかに集まるか」、というテーマをめぐって、答えのない議論を続けていく閉鎖空間に、コロナ禍のアクチュアリティが、うっすら垣間見えてくるところもよかった。あと一押しあれば、間違いなく私は1位に強く推していたと思います。残念ながら、そこまで行けなかったのは、淡々と会議が始まり、結論もなく淡々と会議が終わっていく、という劇構造としては見事なまでの「実りのなさ」にぞくぞくしつつも、それが次回の会議日程を決めて幕になる、という終わり方に、どこか、既視感を覚えてしまったからでした。この作品世界に、そのような既視感だけは不要でした。もっともっと刺激的な作品になると思います。

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