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KSTF2021

審査員講評

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3名の審査員の方々から講評文をいただきました。

//審査員のプロフィールはこちら

サリng ROCK (突劇金魚) 

作家・演出家

 

演劇企画モザイク『大山デブコの犯罪』作・寺山修司

とても楽しく見させていただきました。
俳優さんの力が高いと思いました。滑舌も良く、声も大きく、長い虚構的なセリフをちゃんと自分のものとして言えていました。
「上裸」「下着姿」という衣装でも見栄えのする体が作られていたのも、とてもとても良かったです。
音響、照明のタイミングもきちんと精査して考えられていたと思いましたし、生音であるベルの音、声の大きさも、音響の音量と融合するように細かい調整をしていたように感じました。いろんな細かいところまでこだわろうと意欲が感じられ、とても素晴らしかったです。
その上で、気になった点が3つあります。
1つは、全員同じ衣装ということです。(性別で分けてはいましたが)
今回の作品にとって、その演出が本当にふさわしいか?と疑問に思いました。
モザイクさんは俳優さん個々人に力があるように思いましたし、シーンとしても、群舞というより、一人一人の個性が際立つシーンの連続なので、それぞれの個性が際立つ衣装を身に着けた方がいいのでは、と思いました。揃いの衣装を着たときに効果的なのは、みんな揃って同じ動きをする、とか、みんなで動いたときに全体として一個の大きな絵になる、とかだと思います。今回のモザイクさんでは、そのようなシーンがなかったので、個別の衣装の方がいいと思いました。(もちろん、戯曲の登場人物に合わせる必要はないです。俳優の個性に合わせた方がいいと思います。「上裸」「下着姿」という挑戦的な衣装にするのはめっちゃいいのですが、その上で個々の差を出せると思います)
この衣装のことに合わせて、仮面を使うことにも疑問を感じました。
仮面をつける効果としては、「一人一人の個性を消す」「怪しい雰囲気を出す」ということがありますが、デメリットとして、俳優の目やまゆ毛の表情をかなり消してしまうと思います。
今回は、白塗りもしているので白塗りのおかげで「個性の生々しさ」を消せていますし、ある程度「一人一人の個性」も消せていますし「怪しい雰囲気」も出せると思います。それに先ほども書いたように、今回の作品は俳優さん一人一人の個別の技量が圧倒的に見せられるような演目だったので、仮面で表情を消してしまうのはデメリットの面が大きいと思いました。また、俳優の「剥き出し感」を削いでしまうのではないかと思いました。せっかくほぼ裸でまる出しにしてるのに、顔だけはそんなに守るんや…と感じました。
2つ目は、シーン中、後ろでうごめいている人たちの動きです。
怪しげな雰囲気はあるのですが、「この動きでないといけないんだ、っていう動き」が他にあるんじゃないか?と思いました。雰囲気だけで作られてしまった印象を受けました。衣装が今回のままでいくとしたら、全員の動きがバッチリそろっているというような、全員が揃いの衣装を着ているのが活かせる動きを追加・変更するのもいいと思います。(テーブルの下のかくれんぼとか、男と母がベッドで抱き合うところ、とても良かったです!でももちろん、セリフを説明するための動きにしてほしいわけではないです!!!)
3つ目は、まあ蛇足ではあるのですが、紹介文に《「見てはいけない、でも見たい」をコンセプトにコンプライアンスや既成概念の外側にある世界を見せつける》と書かれていましたが、その上でチョイスしたものが過去の戯曲であったことです。私も寺山修司さんの作品が好きですし、寺山さんを大学生がやっているのを見られるのはめちゃめちゃ嬉しいし興奮するのですが、紹介文の内容からすると、もっと今の時代のもので見せてほしいな、と思いました。大学生がコンプライアンスに挑戦するとき結局昔の戯曲を使うしかないのかな…という少し寂しい気持ちになりました。(単純に「寺山修司が好きやから挑戦します!」って感じの方がしっくりくる上演でした)
たくさんすみません。次にまた同じ演目を福岡でやられるので、参考になればと思い書きました!福岡、魅了してきてください!

 


賞味期限切れの少女『落花』

「きゃぴきゃぴした演技」「しっとりした演技」などの演じ分けも出来ているし、白い舞台に白い降らせ物など、美しい景色を作る力もありました! すばらしいです!
ですが、そのいいところが、今回のこの脚本、やりたいこととは合っていない印象を受けました。
自分の内面を書いている脚本です。自分の内面を吐露したい衝動をすごく感じましたが、その割に、演技も舞台も美しく飾りすぎではないか、と思いました。自分の内面というのはもっとかっこ悪く、ぶさいくで、汚いところが大いにあると思います。もちろん美しい面もあると思います。でも自分で自分を語るとき、もっとかっこ悪い面を前面に出したほうが、結局は自分を語りたいという願望に合うのではないでしょうか。

 


劇団ハナハトサクラ『つながりからの研究』(エキシビション)

とても心を動かされました。
「電車がすぐそばを通る舞台」で「電車に立ち向かおうとするという物語」をすることが、セルフドキュメンタリーのコンセプトに合っていて、「まさに今この場で行われていること」をさらに力強く感じさせられました。
そしてこの「自身の物語」が深刻そうに語られるわけではなく、「笑ってもいいよ」という作りになっていることが、さらに良かったです。心の広い創作者さんたちの手の上で安心して転がされながら、観劇を楽しみました。

 


京田辺、演劇ないん会『シタイ』

オープニングのそろえた動きや、わざわざ吊った白い布の美術や、俳優のセリフの聞こえやすさなどから、しっかりこだわって練習してきたのが伝わりました。
なので、脚本についても、もっと吟味を重ねてほしいと思いました。
死体が、死因を聞かれた際に「自殺」というのが恥ずかしくて「病死だ」などと嘘をつくのは、独特でおもしろい感性だなと思いました。死体の4人が熱く語っている後ろで、生きている人が虫を追いかけているところも、「死んだ人がどんなに熱くなってても聞く価値がない」という視点を感じられて、それもおもしろいなと思いました。
そういったように、物事に対していろんな価値観の人がいるのが世界ですし、だから話すんだと思います。ですが『シタイ』では、そこで話している全員が「家族には話せばわかってもらえる」「家族は大事」「死体には何か訴えたいことがある」「生きているほうが価値がある」という意見で、その点について疑問を持つ人がいないことが残念でした。話してもわからない家族もいますし、何も訴えたくない死体もいると思いますし、生きている方が価値があるというのも、一方からの決めつけのように思えます。
耳触りのいい「それっぽい言葉」でまとめようとせずに、書こうとしている問題についてさらに考えたり、議論したり、してほしいと思います。

 


ZOKEI『線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて』

審査員賞に推しました。
全団体の中で、一番、自分たちのやっていることを俯瞰的に見ていて、しっかり吟味した結果のものを上演しているように思えたからです。「演劇ってこういうもの」「こういうときはこうするもの」という「ぽさ」で思考停止している部分がないと思えました。さらに、稽古などで決めてきたことを舞台上でくり返すだけでなく、その上演の最中にずっとまだ自問自答を続けているように見えました。その姿勢が緊張感を産み、目が離せませんでした。
それでもなにかちょっとだけ、ほんのちょっとだけ物足りないものを感じ、それがなんなのか考えていたのですが、授賞式でやなぎみわさんの「ゆるじゃなくガチでやってほしい」という講評を聞いてなるほどと思いました。確かに、あのゆるさもまた魅力の一つでしたが、もしかすると「ボクら、別に真剣勝負してるつもりじゃありませんから」という逃げの姿勢のように感じてしまったかもしれないです。(私が)

 


劇団「根無し荘」『素敵な部屋』

頑張って脚本を書いたと思いました。日常の身近にある題材をそのまま使うのではなく、しっかり想像力を駆使して世界を作り上げようとしていました。各シーン各シーンに意味を持たせて、何層にも重ねて物語を作ろうという意欲を感じました。最後まで物語を投げ出さず、完結させていました。大事なことです。
ですがその物語を、演劇の上演台本として作る技術、演出の技術がまだまだで、「まだあまり他の演劇を見ていないのかな?」と思いました。俳優も自信なさげに見えます。これからどんどんいい演劇に触れて感覚を掴んで、自信満々に上演できるともっと楽しくなると思います!

 

『開会式』(エキシビション)

野外。ポツポツと置かれた客席。遠くから現れる白塗りの人たちが実行委員。その実行委員がなぜかJpopを歌う。しかも上手くない。その前で繰り広げられる一人の女性のコンテンポラリーダンス。「今から始まるんは普通の学生演劇祭ちゃうぞ!」っていう強い意気込みを感じました。楽しみました!そのあとに始まるすべての劇団名を読み上げる呼号は、退屈に感じました。私が京都学生演劇祭に参加させてもらったのが今年初めてで、今までのひとつひとつの、毎年毎年の劇団に思い入れがなかったからと、また、「学生時代演劇を頑張っていた人たちが今は演劇を辞めている」というテーマが私にとっては感慨を持たないものだったからかもしれません。でも翌日にエキシビジョン上演としてテントの中で見た、呼号の背後で繰り広げられていた斎藤ひかりさんの演目はグッときました。その目や声から「あの時迷惑をかけたワタシ」という個人的な思いの強さが伝わり、胸を打たれました。

高杉征司 (サファリ・P) 

俳優

演劇企画モザイク『大山デブコの犯罪』作・寺山修司

開演前、半裸の男女が微動だにせず舞台上に立ち尽くす姿に彼らの美学が凝縮されていた。
寺山修司による60年代の作品だが、そのゲバゲバしさを活かしながら進められる。出演者全員が被った仮面。このペルソナは個人の固有性を隠すものであるとともに、特定の何者かになる手段でもある。ここでは前者の意図だと思うのだが、その匿名性の中で語られる「大山デブコ」の信憑性は当然希薄で、「大山デブコはあたしです」と語られたとき、やはり大山デブコはいないのであって、その実我々全員が大山デブコたり得るのだ。奥の台上に身動きせず立ち続ける女がいる。それはシンボリックに「大山デブコ」としてあるが、飽くまでも象徴的なものであって大山デブコその人ではない。これらを踏まえ、仮面のもう一つの意味から考えるに、これはまさに「大山デブコ」をおろすための儀式に他ならない。
では大山デブコとは何なのか? 食欲の象徴たるパンの山と性欲の象徴たる裸の男女。その欲望を喰らい尽くす人間の業が人間らしくもあり、逆にそんな欲望を理性で押さえつけることこそが人間の証であるとも言える。コロナ禍にみる漏れ出る欲望、それに対する正義の鉄槌。そんなことが頭をよぎる。今、我々はいかに生きるかを問われている。
舞台装置や照明の暗さからデカダンを思わせる。『ソドムの市』のような欲望の吐口。それをもう少し突き詰めて、例を挙げるなら、全員が一つの肉塊のようにくんずほぐれつしてみたり、動く人止まる人を精査したり、目線による観客の視線の誘導を有効に使ったり、多人数で合わせる台詞を作ったり、咀嚼音を出してみたり、パンを食べ続けたり、シンボリックに立つ奥の女に照明を当てたり、など考えられる具体策はたくさんあるのだが、そんな更なる工夫の先に滲み出る欲望が見てみたい。


賞味期限切れの少女『落花』

オープニングでの慎重な身体、丁寧な発話、美意識の行き届いた舞台装置と衣装。そこで紡がれるテキストは抽象性の持ちうる強さがあって、まず引き込まれた。
その抽象モードと具象モードがカットチェンジで交互に繰り返されていく。そこには、恐らく出演者ご自身の、苦悩や迷いやちょっとした喜びがあって、それらは切り分けようとすればするほどに切り分けられるわけもなくないまぜになっていく。やがて、それら全てが自分を構成していることを引き受けて、そっと祈りを捧げる。
出演者である早川さんがご自身で脚本を書き、演出している一人芝居。あれだけの時間を一人で、力みもなく、浮き足立つこともなくやり抜く力量にまず脱帽。これは本当にすごいことだ。しかし、当然これだけのことを一人で担う弊害もある。客観性の問題だ。深く自分という井戸を掘り、主観を突き詰めるという方法もあるかもしれないが、その前に一度このテキストで他人を演出してみるなど試してみては? 他人の身体を通して自分を客体視した時、新しい自分への気付きがあるかもしれないし、他者へ伝える方法も変わってくるかもしれない。現状、具象モードのカリカチュアが強すぎて、早川さんその人が見えてこない。技術とサービス精神に覆い隠されてしまっている。結果、その「祈り」は届きにくいと言わざるを得ない。テキスト上はご自身を曝け出しているようでいて、舞台上では厚い皮膜に覆われている。観客(他者)と関わるのは恐ろしい。他のアーティスト(他者)と創作するのも恐ろしい。しかし、その他者と向き合わないと次へ進めない気がした。「祈り」とは元来「利他の精神」なのだから。


劇団ハナハトサクラ『つながりからの研究』(エキシビション)

生きにくさを抱える二人の男性が、出会い、語らい、小さいながらも彼らにとっては大きな1歩を踏み出すビルドゥングスロマン。
この生きにくさというのは、程度の差こそあれ誰しもが持っていると思しきもので普遍的なテーマなのだけれども、ゆえにともすればフワッとしてしまいがちである。そこに「電車に乗るのが怖い」「つまずいて歩けない」という具体的な形を与えたことが大きく評価される。それは作品に構造を与え、観客に取って観劇の指標となった。
野外劇ということで不如意な環境音が入り混じる。虫の声、風の音に電車の音。ことさら電車の音は真横を線路が走っている都合上夥しい存在感で、ここで上演する以上如何にそれを作品に取り込めるかが至上命題となる。その点でもこの作品は大変うまくいっていた。誰も救いの手を差し伸べなかったある学生の死。そんな彼を轢いた電車に乗っていた私。そんな会話をする後ろでゴーと鳴り響く本物の電車の音。この音を音響で出してもこれほどの効果は得られない。そこにある環境を受け入れ、しかもいつ音がするか分からない即興性とのコラボレーション。鳥肌が立った。
出演者である二人の男性にとってはドキュメンタリーのような作品なのだろう。しかし「過去の自分」として少し距離を取り、演劇化することで自己を客体視し、演出家を立てて客観性を担保する。その距離感やバランスがこの作品を作品たらしめていると感じる。初めての演劇ということで戯曲も演出も演技も拙いことからは免れ得ないのだが、演劇とか作品とかいうものはそういった技術やレトリックを超えて深く心に突き刺さるものだと改めて思い知らされた。創作に携わる人間が「切実に、そこにいる」ならば。


京田辺、演劇ないん会『シタイ』

四人の女性の死体が話すのを聞いていると、彼らの生前の様子が見えてくる。死因も判明するのだが、検視官らしき男の口から本当の死因が明かされる。その繰り返されるどんでん返しが見所ではあるのだけれど、それは演劇的によくできていない。その理由を端的に言うと、あらすじを説明しているに過ぎないからだ。口先でペラッと喋っただけのことを後で翻したとて「ああ、そうなんですか」としか思わない。元々の発言に根拠も信用もないからだ。「こんなに不幸でした」と泣かれても観客の心は動かない。やはり、そのエピソードはペラッと口先で語られたものでしかなく、根拠も信用もないからだ。フィクションだからこそ、設定・発言・人物・関係性などに丁寧に根拠を与え、観客の信用を得る必要がある。
どうすれば良いか。もちろん色んなやり方があるし、それは作風によっても違ってくるだろう。今回に関して言えば、人物をしっかり造形することだと思う。一人一人の人間を「キャラ化」するのではなく、人格としてきちんと書く。そしてきちんと演じる。エピソードはモノローグで説明するのではなく、ダイアローグを通して伝える。その際に、書くものも演じるものもその人物の心の機微を繊細に捉える。そういう基本をしっかり押さえる地道な作業と修練に期待したい。
そうやって作劇の技術が上がってくると、今作の男性陣の使い方も変わってくると思う。都合よく必要な時にだけポッと出てくる便利な役ではなく、ストーリーに絡めて女性陣との関係性を構築できる、いわば作品をビルドアップできる使い方に。
オープニングのカウントで着衣するシーンはセンスも感じた。「あれができるなら」と期待せずにはいられない。


ZOKEI『線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて』

ゆるさと気怠さに包まれながらもいい意味で居心地の良くない作品だった。ゆるさや気怠さという言葉から連想するのは安心とか眠気とか疲れといったことかと思うのだが、今作に漂うゆるさはそういうのではなく排他的な攻撃性があって、アジテーションであって、そこに彼らのくすぶった野心や不満が息づいているようで目が離せない。観ている私もピリッとした気持ちになる。
いくつかのパフォーマンスから構成されているが何一つ完成度を上げようという意思は感じられない。それがゆるさの根源であり、彼らの意思表示なのだ。影絵は素敵なのだが、マイクで拾う声はあまりにデリカシーに欠ける。ラッパーも当然気怠い。弾き語りも完成度の低さ(ヘタウマ)の魅力で押し、プロジェクターとミラーボールで会場全体を包み込むインスタレーションもかなり雑。プロジェクターとミラーボールを扱う身体も舞台上に晒しているのだけれど、それもあえて不用意で、「魅せる身体」ではない。その後もリンゴが一輪車に乗ろうとしたり、日の丸みたいなリンゴの旗を必死っぽく(決して必死ではない)振ったり、カーテンコールでハミングを強要したりとゆるさは最後まで続く。
それらは総体として一つの意味は持ち得ない。そこにポストドラマへの意識を感じる。アイデアと実験を繰り返した探究心が見え隠れする。真面目に、必死に創った作品なのだ。真面目に必死にだるくする、という一見バランスの難しそうなことを飄々とやってのけるのだ2000年代生まれは。
審査員などという些か権威的な肩書きを背負って観劇した私は、当然彼らの潜在的な怒りを真っ向から被弾することとなる。しかと受け止めましたよ。先人を貫いた彼らの怒りの矛先は、しっかり未来へと向かっている。


劇団「根無し荘」『素敵な部屋』

来訪者に理想の家、ひいては理想的な人生設計を見せる案内人。しかし、そこに理想を見ていたのは案内人その人で、彼は誘拐された妹との再会を夢見るホームレスだった。劇の構造はとてもよくできており、評価に値する。しかし、作品そのものからそこまでの評価を得ること叶わなかった。それはなぜか。
まずは人物造形。全ての登場人物が二次元的で立体感を欠く。エピソードも関係性も言葉尻でそう言っているからまあそうなのだろう、と頭では理解するが実感が伴わない。台本レベルでの問題もあるし、演者も当然責任の一旦を担う。差し込むエピソードも精査するべきで、構成も疑う余地がある。ストーリーを説明するのに必要な場面しかないことが一つ大きな問題と思われる。何気ない団欒などダイアローグで構成された場面をうまく差し込むことで人物や関係性、そのエピソードの説得力を生み出すことができる。モノローグで説明しなくても。観客が納得するために必要なことは何なのか、思案し実践して欲しい。
場面転換に工夫があるといいなと思った。暗転(場転あかり)で作品がブツ切れになっているのがもったいない。人物の状態を過去とオーバーラップさせるなどで切れずにシーンがつながると、それだけでかなり観やすくなりクオリティが上がる。
舞台空間に可能性を感じた。何もないことを逆手に取って「見る人によって全く違ったものが見える部屋」と定義したのは有効な手段。しかしその設定があまり活かされていなかった。ここは演出の領分だと思うのだけれど、その設定を活かして何もない空間を如何に豊かに想像させるか。とても取り組み甲斐のある課題だと思う。

 

 

やなぎみわ 

美術作家・舞台演出家

 

演劇企画モザイク『大山デブコの犯罪』作・寺山修司
演出、演技ともに、力作。ただし、オリジナル曲(作曲:和田誠 作詞:寺山修司)、さらにクライマックスの『謡 III Reincarnation攻殻機動隊』(川井憲次)のインパクトが強すぎる。どれも「名曲」だけに音楽に依存しているような印象が残ってしまうのが残念。音楽に委ねない稽古を。自らの身体表現を信じてほしい。

Bブロック1

 


賞味期限切れの少女『落花』
作、演出、出演、すべて一人でやりきったパワーは素晴らしい。演出として客観的な視点も維持しながら丁寧に創作している。次を作るなら、現実の「わたし」から一気に離れることを勧める。今まで一度も想像も出来なかった遠い他者を「わたし」として創造してほしい。

 


劇団ハナハトサクラ『つながりからの研究』(エキシビション)
場所と演劇について、最も熟慮し自覚的に創られた作品です。

 


京田辺、演劇ないん会『シタイ』
霊安室で語りあう死体たちの人生と死。演者達がちゃんと稽古を経た誠実さを感じる舞台である。台本は、自死や家族への殺意など、ステレオタイプの悲劇が詰め込まれすぎ、古風な印象が否めない。ただ脚本家は留学生ということなので、言語そのものを相対化する試みがあっても良かったのではないか。

 


ZOKEI『線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて』
パフォーマーの独立した意思を尊重するというステートメントの通り、演劇や劇団という括りから解放されている実験作品。ラフスケッチから多くの絵を想像するような楽しさがある。
パフォーマー同士の融合とバトル、緩さと切れ味の緩急があっても良い。

 


劇団「根無し荘」『素敵な部屋』
ホームレスの主人公、モデルルームというどこでもない場所、不確定な漂流感は、脚本でよく描けている。今回の公演地は、人々が歴史深く根ざした場所なので、演出の中で、対局の場の力をもっと引き出しても良かった。

『開会式』(エキシビション)

まず「開会式」なのか「開会式という名の作品」なのか、はっきりさせたほうが良い。
ただの式なら、観客にその後の上演作品に集中してもらうためにも
もっと簡潔簡略にした良いのではないか。作品ということであれば感傷的でレトロスペクティブ。
今年は開催が野外になったことで、半世紀前のアングラ・テント芝居の雰囲気に流れたのかもしれない。
しかし野外の非日常感に酔うのは、あくまで観客側。そして有料観客をいれる限り、学園祭ではなく興行なので、
クールに切り分けてほしいところではある。
もちろん非常事態宣言下、イレギュラーな場所で公演にあたって主催側は非常に大変だったと思う。
難関を乗り切ったパワーで将来に繋げていってもらいたい。

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