
小倉笑さま
【A-1 劇団洗濯氣】
空想的なテーマだけど、理不尽な大きな力にどう抗うかや、現実社会への比喩とも受け取れる内容でした。群衆がアトリエを襲うシーンや、仲間だと思っていた人が実は活動を詮索するスパイだった、など、観客として観たときに、内容的にも表現の手法的にも、ゾワゾワっとする感覚を覚えました。アクティングエリアの奥行きの使い方が素敵でした。場面によってエリアを分ける事でシーンの切り替えがスムーズに行われていて、とてもスッキリと観やすい印象でした。
【A-2 演劇ユニット くじら74号】
美術のダンボールが、主人公の記憶のしまい先、片付かない部屋、瓦礫、さまざまなモノに見えてとても豊かでした。役者の方々の立ち方も、あくまで自分たちの等身大の立ち方で、素敵でした。いちばん"身体の重さ"を感じた演目でした。「何かをやろうとする意識」を舞台上で極力減らしていくことは難しいと思いますが、この作品での役者の皆さんの在り方は、まさにその難しさに挑戦しているようで、とても繊細なものを感じました。何かをやろうとするよりも、何かが内側から起こってくるのをしっかり待つ時間があったのではないかと思います。
【A-3 劇団深夜特急】
客席と舞台上で起こる事の距離感が伸び縮みする感覚が面白かったです。4名のキャストがそれぞれとても魅力的で、それぞれに悩んでいる心の機微が見えてくる内容、演技でした。
実際にお笑いコンビをされていると聞いて納得。人が悩みを抱き、どんな時間軸でその悩みと向き合うか。自分のやりたい方向性で本当にできているのか。主人公の日記や語りを通して、会場全体が熱い悩みの渦に飲み込まれていくような舞台でした。
客席後方から舞台上へ言葉をかけていく構造も素敵でした。観客の視点が一気に演者と近くなり、短い時間の中で様々な視点を行き来する経験でした。
【B-1 劇団ACT】
舞台奥の鐘が印象的でした。その鐘から世界観が一気に滲み出てきて、「この空間は劇場の外の世界線とは全く違うのだな」と感じました。出演者全員が常に"何かをしよう"としてる能動的な身体で、エネルギーが舞台上に常に満ち満ちていました。もしかすると、もう少しだけそれぞれの役者のエネルギーの"満ちさせ方"を調整することで、躍動感の緩急を物語全体につけることが出来たのでは?とも思いました。
「常に何かが起き続けてるな」と思っていたら、あっという間にラストシーンとなっていました。
【B-2 劇団未必の故意】
空間全体に響いていくような声の使い方が印象的でした。特にラストシーンでの鬼気迫る声色が魅力的でした。声が魅力的な分、身体の状態へまでそれらが及んでいたら尚素晴らしいだろうなと、想像しました。指先や目線の使い方などに意識的になることで、物語全体に流れている「女性」の繊細な心の機微をより細かく描くことが出来るのではないかと思います。
「女性のための演劇」と対象となる観客を絞っているのは、ハッキリしていて良いなと思いました。他の作品を題材にした際にどのように変化していくのか、今後に期待です。
【B-3 劇団愉快犯】
1人の役者が小学生からニューロンにまで何にでもなれる状態を作り出せる、場所だって自由自在に操れる、舞台だからこそ出来る事を全力でやっていたという印象でした。
音楽を使っていないのに、自然と音楽性が溢れ出ていました。一見、全力疾走しているかのようなエネルギーの強さに、繊細さが散りばめられていて、どんどんその場で起こる事に惹きつけられていきました。
1人の役者に沢山のチームメンバーが関わり創作された作品だと聞いて、丁寧にかけた時間は嘘をつかないんだなと感心しました。
【C-1 京田辺、演劇ないん会】
日常とは別次元な世界観が美術からも、役者の皆さんの声の使い方や身体の佇まい方でも表現されていました。特に印象に残っているのはI役からR役へ羽を渡す時の手。作品全体としても、一部を切り取って見るシーンか、舞台全体を見るシーンかの切り替えがわかりやすく、観客の視線誘導への演出が細やかに行われていました。内容的には物語の第一話を観ている感覚となり、この先このお話はどんな風に進んでいくんだろう、と気になりました。
続きがあれば、ぜひ、続編を観てみたくなりました。
【C-2 灯座】
舞台を観に来て構えてしまっている身体がめちゃくちゃ良い感じに緩まっていくような、ユルい作品。狙ってあそこまでユルくできるのは素敵!優しさとブラックユーモアのバランスがまた面白い。観客の存在自体を舞台に入れていくのって、実は難しいことだけど、それを演出や役者のキャラクターの魅力によって、スルリとやってのけていたように思います。
自然と観客が笑顔になっていたのが印象的。
演者の皆さんの意識の開き方がとても特殊だなと思いました。演技とタスク(バルーンアート作成、流しそうめん装置のセッティングなど)が絶妙に混ざり合いつつ、バラバラで、そこがまた観客の笑いと気持ちをグッと抑えていたところだなと思います。
【D-1 劇団,白薔薇】
美術、役者の在り方・立ち方、照明や音響効果、様々な要素が無駄なく自然でした。ベンチがあることによって、役者が正面を向いている事がいたって普通になるのには驚きました。
照明も街灯のように1点に真上から降り注いでいて、特に変化はしていなかったらしいのですが、観客の目が明るさに慣れていき、自然と細部が見えてくるのも粋な演出だと思いました。
どこかで出会ったことのある様な会話の時間、決して特別なことは起きなくても、人生の余白時間を覗いたような感覚となりました。もはや、それが"特別な時間"なんだなとも思いました。
【D-2 劇的集団忘却曲線】
人の二面性を扱ったテーマが面白かったです。テーマが面白い分、見せ方を整えるともっと内容が深くなるように思いました。ルイスの二面性、情緒が狂っていく様を強調させる為に、ルイス以外のキャストの情緒の描写を整える必要があったかもしれません。感情の扱い方がそれぞれの役者に任せているのか、もう少し演出を入れる余地があると思いました。カラス役の方が一番安定しているように思いました。
また、黒子や舞台袖の使い方が意図せず目立ってしまっているように見えてしまい、その点も、見せるのか、見せないのかをハッキリさせる事で改善があると思います。

鍵山千尋さま
【全体講評】
楽しく、考えさせられる、有意義な時間を本当にありがとうございました。最初に審査員をお引き受けしたときから、最後に打ち上げで日が変わるまで学生さんたちとおしゃべりしていたときまで、祝祭の時間を存分に楽しませてもらいました。
このお祭りに集った人たちは、きっかけは本当に様々であっても、演劇という世界に足を踏み入れてしまった人たちです。せっかくその世界に立っているので、そこで自分がいる意味を、どうか少し長い目線で考えてみてほしいなあと思いました。トークイベントでも少しお話ししましたが、私自身が演劇を始めたきっかけは、野田秀樹さんの上演を観にいって、「あ、観るだけじゃなくてやってみようかな」と思ったことでした。同じクラスの子が劇団ケッペキにいると聞いていたので、その流れで足を踏み入れました。何気なく始めたのですが、続けていくうちに、演劇との向き合い方は次第に変わっていきました。
最初の頃は、「どうやったらお客さんに楽しんでもらえるのだろう」というそれだけを必死に考えていました。(「それだけ」という言い方はよくなくて、「楽しんでもらう」はそれだけで演劇をやる十分な理由ですね。)ずっと続けようと思っていたわけではなかったのですが、中高の演劇部の顧問をさせてもらうようになって、違う角度から演劇に関わるようになりました。すると、演劇という文化活動が歴史の中でどう位置づけられてきたのか、また社会でどのような役割を果たしてきたのかを考えるようになりました。演劇ってとても教育的な活動で、教育現場でも広く取り入れられています。海外では特に。
演劇という活動には、社会における人間の営みのすべてが含まれています。たくさんの人が全く異なった考えを持ちながら共存するということ、対話の大切さ、わかりあえなくても対話を続けていこうとすることの意味、そのための方法の模索。そうした営みこそが演劇の意味であり、そして世界を平和にする営みそのものです。
若いうちにたくさんの演劇を、本を、映画を、あらゆる芸術表現のすべてを見てほしい。今回たくさんの若い作品を観て、私は大いに元気をもらいました。打ち上げで多くの若者と話をして、本当に勇気をもらいました。
演劇という活動は、コスパもタイパも非常に悪い。それでも、作品づくりの中で多くの対話を重ねることで、作品への向き合い方だけでなく、自分自身の視野が広がっていく。そしてそこで得た力は、演劇をやめたあとでも必ず生きてくる。演劇はどんな形であっても続けてほしい。それが世界を平和にする一歩。わかりあうことのできない他者との対話を続ける、その営みにこそ価値があると思います。
おまけ。
講評会でもお伝えしたように、実行委員のみなさんの視野の広さには本当に感服しました。うちのちっちゃい3人の幼児のベビーシッターを快く引き受けてくださり、「労働」としてではなく「祭りの一環」として捉えて対応してくださったなあと感謝しています。学生のみなさんにはまだ縁遠い話かもしれませんが、そうしたちっちゃな、目に見えない支えの積み重ねこそが、素敵な演劇祭や、素敵な世界をつくっていくんじゃないかなって思っています。
【A-1 劇団洗濯氣】
オープニングの照明がとても美しく、観客を一気に作品世界へ引き込む力がありました。「空職人」という心惹かれる設定も魅力的で、この世界観の独自性をしっかりと支えていたように思います。作品全体の完成度は高く、技術もすばらしいもので、各々の演技がしっかりしていて非常に見やすかったです。ただ、その一方で、演技がやや記号的すぎると感じられる瞬間もあり、私としてはその点で少し入り込みにくいところもありました。しかし、ファンタジックな世界観を表現するうえでは、こうした記号性も一つの手法としてありかもと思いました。
また、ディストピアものとしては、(私の狭い知識では)上層部の人物が具体的に描かれるのは珍しい印象があり、興味深く感じられました。ディストピアものといえば『1984』や『侍女の物語』を連想しましたが、違った切り口で世界を提示してくれたと思います。
ビンタは、動作として非常に大事だとおもうので、効果音ではなく実際にぶってほしかったという気持ちも少しありました。ささいなこと&好みの問題ですが。作品全体として魅力的で、世界観・演出・役者の力量がそろっており、最後まで惹きつけられる舞台でした。
【A-2 演劇ユニット くじら74号】
西部講堂の特徴である八百屋舞台に、広々と舞台美術が設置されていて、開演前からわくわくしました。「8月6日9:26」で伝わることを、言葉少なに淡々と語り始める語り口に、引き込まれていきました。関西弁や広島弁の使い方もとてもよく、会話が自然で圧倒的にうまかった。冒頭の男女の会話の中の静かなマンスプレイニングの描かれ方もうまい。
石舞台の上で紙を掃く演出は本当に見事で、石舞台から落ちてしまったものを探すという演出に、胸を打たれました。言葉以外の手段で表現することに演劇の醍醐味があるということを、あらためて感じさせてくれた瞬間でした。
細かなところへの気配りも素晴らしかったです。「-196℃×2本→本絞り2本」という飲み物の置く位置の変化、最後に瀬戸内レモンサワーを飲み干す。小劇場ならではの空気感の醸成、見事だなあと感じました。
私自身が教員であるため、こういった社会的なテーマを扱った作品を絶賛すると「学校の先生だから〜」と思われそうなのですが、それでもやはり外へ目を向けたテーマに踏み込むことの大切さを強く感じました。とはいえ、テーマ性に関係なく純粋にすばらしい作品だったと思います。
先日、京都市の中学生の演劇大会で審査員の方が「すぐれた脚本には3つの葛藤が描かれている」という見方を紹介されていました。(うろ覚えですが、「自分の内側の葛藤」「他者との葛藤」「社会との葛藤」だったと思います。)その観点で見ても、この作品にはそのすべてが盛り込まれていたのではないかと感じます。
講評会でも少し触れましたが、最近読んだ豊永浩平さんの『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を思い出しました。沖縄戦を描いた、沖縄の現役大学生による作品で、ここ数年でいちばん心に刺さった本のひとつです。(ちなみにこの作品は昨年の野間文芸新人賞を受賞しましたが、今年はピンク地底人3号さんが受賞されました!おめでとうございます!)(野間文芸新人賞の審査員を務める私の敬愛する高橋源一郎さんが、「平均点が高い作品より、誰かひとりの心に刺さる作品」(意訳)と述べられていたことがあり、それと同じ趣旨のことを今回ピンクさんが話されていたので、さすがピンクさんと思っていました。)沖縄の若者が沖縄戦に向き合う優れた作品を生み出していることに希望を感じました。広島出身の映画監督・西川美和さんが新聞のインタビュー記事で、広島で生まれ育った若者が平和教育に食傷気味になってしまうことについて触れていました。それでも時とともに宿命を感じるようになり、表現へと足を踏み入れて踏ん張れば、次の世代が別の形でチャレンジしてくれる気がする、と語っておられました。
この作品を観て、つないでいく次の世代の存在に胸がときめきました。
【A-3 劇団深夜特急】
「演劇に点数つけんな!」は、今回のセリフの中でいちばん心にささった。演劇(演劇に限らず芸術全般)は、受けとめる側の状態に大きく左右されます。私は今回審査員という立場で作品に向かい、普段個人的に観劇する時以上に思考回路をくちゃくちゃさせながら、「おもしろいってなんだろう」「すきなものってなんだろう」と頭の中をぐるぐるさせて観ていました。最後に「演劇に点数つけんな!」にたどり着いたとき、「演劇」部分を他のいろんなもの(「芸術」「人生」「他人」等々)と置き換えて、深く考え込んでしまいました。
舞台の使い方もよかったです。劇団愉快犯さんの上演でも感じたことですが、西部の広さをあえて使わず、舞台のみを使う潔さが見やすくてよいなと思いました。題名が青臭くてすてき。私自身も「好きなことをやるってどういうことかな」「好きと思っていたものは本当に好きなものかな」と、自分の好みがわからなくなりながら観ていました。
古今東西ずーっと描かれ続けてきた、使い古されたテーマかもしれません。でも、描く作家さんによってその必然性は当然変わると思うので、この作品はまさに作家さんの言葉で描かれているなと感じ、心に入ってきました。『アイデン&ティティ』という映画を思い出しました。あと、大前粟生さんの『おもろい以外いらんねん』(お笑いを志す若者の話です。検索してみたら、アマゾンで「芸人小説の金字塔」って紹介されていました。すごいですね。大前さんは京都在住の若い作家さんです)。どちらも若い人にはぜひ見て&読んでほしいです。(若者がお笑いを志すと言えば、ちょっと前本屋大賞をとった『成瀬は天下を…』ですね。これもとてもおもしろかったです。)
最後に観客に拍手の用意をさせた、自然に拍手する構えにさせてしまう感じが、本当に秀逸でした。冒頭の意図的な拍手の準備から始まり、ラストでは作品の流れそのものが観客の身体を自然と動かしていたように思います。題名のストレートさも相まって、作品全体がまっすぐで清々しかったです。
すきなことを続けてください。
【B-1 劇団ACT】
舞台奥の「鐘」がとても印象的でした。この鐘は何を象徴しているのだろう?どのように物語に関わってくるのだろう?とワクワクしながら観劇しました。冒頭、美しかったです。独特の世界観で話が構成されており、耳慣れない言葉がすぐには頭に入りきらないもどかしさがありつつも、知りたい気持ちが高まり、非日常的な世界にどんどん引き込まれていきました。
作品の楽しみ方は人それぞれですが、舞台上で起こることを自分の身近な出来事に置き換えたときに心を揺さぶられるということがあると思います。相容れないふたつの考えが対立し、それぞれが思いを叫ぶシーンでは、胸がひりひりするような感覚を覚えました。
演劇で「鐘」といえば、私は真っ先に『パンドラの鐘』を思い浮かべました(講評会では『安珍清姫』ではないかという声もありました。確かに)。今回の「鐘」は、観客それぞれに意味を探らせる余白がありました。曖昧さゆえに想像が広がり、作品世界の奥行きを深めていたように思います。
また、偶然の産物ではありましたが、暗転中に風で入口の幕がふわりと開き、外の光が差し込んで役者のシルエットが浮かび上がった瞬間がとても美しかったです。西部講堂の良さ、お芝居の良さだなぁと魅入りました。
おまけ。
打ち上げで上演された方々とお話しした際、昨年度の高校演劇の大会で近畿大会に出場したメンバーが多くいらっしゃると聞き、その作品を観劇したときのことを思い出して、幸せな気持ちになりました。長年高校演劇の指導に関わってきましたが、元気な高校生たちがその後も元気に演劇を続けていることに、元気をもらいました。
【B-2 劇団未必の故意】
幕開け、もたれあっているふたりの体がしっかりと存在していることにまず圧倒されました。基本的なことではありますが(私は演劇の基礎的な技術、たとえば発声や姿勢を、もともとそれほど重要視しないのですが)(発声も姿勢もめちゃくちゃであっても心を打つ演技や作品は確かに存在すると感じるので)、しっかりと美しく声が通り、言葉がすっと頭に入ってくるということが、作品を成立させ、観客に物語を届けるうえでどれほど大切かをあらためて気づかされました。
「シスターフッド」をテーマにしていると伺い、楽しみにしていましたが、その期待に十分応えてくれる作品でした。男性(お父様や夫)を声のみで登場させる演出や、静かなマンスプレイニングの描かれ方も丁寧で、扱い方に誠実さを感じました。作品の鑑賞の仕方は人によってさまざまですが、私は現代的なテーマに置き換えながら、とても興味深く鑑賞させてもらいました。
「ここを出る」という劇的なシーンで、韓国映画『お嬢さん』(パク・チャヌク監督)(大変におもしろい映画なので、ぜひ観てほしいです!)のワンシーンを思い出しました。女性二人が手をとりあって駆けていくシーンなのですが、同様なカタルシスを感じました。(最近観た『ウィキッド』でも同じことを感じました。)
小劇場だからこそ生まれる演者と観客の近さ、西部講堂という空間だからこそ生まれる遠さ。空間を巧みに活かしていたのも印象的でした。最後の弓、よかったです。心を突かれました。
【B-3 劇団愉快犯】
スタート、こども落語の枕のようで、素敵で、わくわくしました。石舞台との距離の近さも本当によくて、この作品に合っていたように思います。
演劇の基本中の基本である「目の前のお客さんを最大限楽しませる」ということ(もちろん楽しみ方にはいろいろありますが)(何も考えずに爆笑するのも楽しみ方の一つだし、逆にまったく笑う場面はないがずっと頭をフル回転して考えるのも楽しみ方の一つだと思います)、その点が今回、ほぼ完璧だったのではないかと感じました。心から気楽に、とはいえ考えさせられる場面もたくさんありつつ、でもその気楽に楽しめる空気をずっと保ってくれていたのが見事でした。
教員の立場から、クラスにひとり欲しいタイプの人だなと感じましたが、そもそも役者さんが演じている人物が、役者さんの素の姿とどれくらいかけ離れてるのか(もしくはかけ離れていないのか)さっぱりわからず(もちろんいい意味で)、日常ではどんな人間として存在しているのだろうか、どんな人物なのか、どんな人生を送っているのかまで気になってしまいました。
考えるのを放棄して楽しみたくなるくらい圧倒的なパワーがありましたが、審査員という立場上、どうしてもいろんなことを考えさせられました。
作品から連想される別の作品(文学や映像等)を挙げる、という縛りをマイルールにしたので、無理に挙げると、池澤夏樹さんの『マシアス・ギリの失脚』を思い出しました(でも無理やり後付けしたわけではなくて上演中に思い浮かびました)。「バスがいろんなところ(空とか海とか)を旅する」というところしか共通点はありませんが、ワクワク感が似てました。(でももし読まれた方がいたら、テーマは全く別のところにあるのでごめんなさい。)(と書いてみたのですが、観劇後かなり時間が経ってから講評文を書いていると、意外と奥深い部分のテーマは似ているのかもしれないと思い始めました。)
最後のシーン、なぜだか神々しかったです。お客さんを味方につける役者さんだなぁと思いました。
【C-1 京田辺、演劇ないん会】
私の考える、演劇(を含むすべての芸術、文学、諸々の表現活動)にとって大事な要素のひとつである「観客(受け手)の想像力を刺激する」ということをとても丁寧に用意してくれているように感じました。「この箱はなんのメタファーなんだろう?」「この空間はなにを意味してるんだろう?」と考えながら、自然と引き込まれていきました。抽象度が高く、想像力を働かせる余地が大きく広がっているのが心地よかったです。
美術への拘りも徹底されていて、衣装や音響、空間の細部まで細やかな意識を感じました。詩的な世界観のなかで、所作が記号的にならず、動きや距離、目線等細かい部分が役者間でうまくつくられていると感じました。AとIの会話も美しく、Iのどこか突き放すような発語が不思議と惹きつけられました。1対1の対話から3人での対話へ移っていく構成も巧みで、関係の変化がとても丁寧に描かれていたと思います。
観客が両側に位置する舞台は、向かいの観客が気になって集中しづらくなったり、必要性が見えにくかったりと、なかなか難しい形式だと思います。でもこの作品は、舞台上の世界を観客みんなで上からのぞき込んでいるような不思議な感覚になり、その構造が作品の世界をより深く見せていたように感じました。
講評会では、松谷みよ子さんの『ももちゃんとあかねちゃん』に出てくる謎の森の家(?)を思い出した話をしました。そこで出てくるろうそくの話を(たしか)しましたが、帰ってから読み返したところ、ろうそくではなく植木鉢でした。長年の心象風景が覆されました。(ろうそくの方がメタファーとして分かりやすいので、勝手に記憶の中で変換していたのかもしれません。)どちらにしても、こどもにとっては難解だと思うのですが、当時衝撃をうけ、暗いイメージに頭を悩ませました。こどもにとって絶対の存在であるお母さんとお父さんの弱さが暗示されていて、怖かった。(こども向け作品は抽象度が高い&メタファーが多いので、奥行きが深くてなかなか難しいなって最近思っています。)
この作品も、まさにそんな寓話性を備え、抽象度の高さや関係性の変化が豊かな広がりを生み、観客に想像することを促してくれる魅力的な作品でした。
【C-2 灯座】
冒頭からめちゃくちゃ楽しかったです!Cブロック、組み合わせいいなぁと思いました。逆方向に振り切れていて。どの団体も「自分の作品」をつくっている感じがとてもよかったです。Cブロックに限らず、全ブロックを通して同じものがひとつもなく、10団体すべてが違うことに感動しました。「京都の大学生の演劇作品」という狭いくくりのなかに、こんなにいろんな演劇があるんだなぁ、と感心しました。灯座を観ながら、(全上演の最後に見たわけでもないのに)そんなことを考えさせられていて、それだけ灯座が独自性の高いものに挑んでいたということなのかなぁと感じました。
うちのこどもにみせたかった!と思いながら観ていました。こどもの鑑賞に堪えうる作品というのは、それだけですごい。保育園や小学校でもぜひやってほしい。演劇でしかできない種類の作品だなぁと感じました。
もっと心から楽しみたかったのですが、椅子が傾いていたせいで(西部の特長である斜めの床もこういうときは厳しいですね)途中で集中力が切れてしまい、演劇はどうしてもお客さんのコンディションに左右されてしまうんだなぁ、演者の努力ではどうにもならない部分があるんだなぁ、と当たり前のことをあらためて実感しました。そのせいもあってか、タイムリープには少し疲れてしまいましたが、それでも作品の持つ勢いと発想の面白さを十分に楽しませてもらいました。
【D-1 劇団,白薔薇】
よかった!会話のテンポが心地よく、丁寧に作られた会話劇で、なんだかほっとしました。いちばん好みの作品。(でも今回の演劇祭の作品をすべてみて、自分の好みがよくわからなくなりました。)同時代性があり、距離感が抜群にうまかったです。ファミチキの使い方も巧みで、演劇でこその表現だなぁと感じました。観客をひりひりさせるのが本当にうまいなと思いました。劇団深夜特急のところでも挙げましたが、『アイデン&ティティ』という映画を思い出す瞬間があり、登場人物の不安定な心情やモラトリアム特有の不安定さがじんわりと伝わってきました。
「私なんでつづけてるんやろ」に胸がきゅーってしました。会話の巧みさや、描かれている場面のひりひり感に心を奪われながら見続け、最後の方のシーンで煙草を拾って吸った瞬間にふわーっと世界が広がりました。あのシーンは秀逸。煙草が象徴しているもの、煙草を拾う行為が象徴しているもの、煙草を吸うあの空間が象徴しているもの、そういったすべてを観客に想像させる力があったと思います。
演劇作品は観客の前で上演されて初めて完成するとよく言いますが、各々の観客の中に作品をつくりあげていく力を感じました。
高橋源一郎さんが(度々登場させてすみません)、鑑賞者に別のことを考えさせる作品は優れた作品だとおっしゃっていましたが、自分の人生と照らし合わせながら多くのことを考えさせられる作品でした。
【D-2 劇的集団忘却曲線】
冒頭めちゃくちゃよかったです、サーカスのわくわく感に一気に引き込まれました。ピエロの服も素敵で、笑い声も印象的でした。(打ち上げでお話ししたとき、まだ1回生(でしたよね?違ったらごめんなさい)とお聞きしてびっくりしました。)カラスさんの「待ってました感」もすごく、堂々としたピエロさんと合わせて、見ていてわくわくしました。(打ち上げでお話ししたとき、カラスさんはとても礼儀正しく落ち着いた方で、舞台上のキャラクターとのギャップにびっくりしました。)(実在の人物があのキャラクターの訳ないですよね。)サーカスという設定で、鴨川舞台もぴったりで納得。
講評会でもお話ししましたが、年寄りなので、劇団名「忘却曲線」を見て勝手に期待が膨らみ、サーカスなら空中ブランコとか出てくるかなぁと妄想しました。無茶言ってごめんなさい。30年ほど前、私が劇団ケッペキにいた頃、忘却曲線さんと交流があったのですが、その頃は大掛かりな道具を作って無茶をしていたので、その名残を少し感じられるようなワクワク感がありました。
話の構造もめちゃくちゃ面白かったです。ルイスの明るく派手な部分が、より暗さを際立たせていたと思います。最後にルイスがしゃべる場面はとても切なくかった。心に残りました。

ピンク地底人3号さま
【全体講評】
まず初めに。
実行委員の熊澤さん、森本さん、栗山さん、そしてその他のスタッフの皆様。
呼んで頂き、ありがとうございます。
たったの三日間ですが貴重な時間を過ごすことができました。
特に楽しかったのが演劇祭終了後の打ち上げで、複数の学生さんとお話をする機会を得ました。鋭い質問がいくつも飛び出し、感心しっぱなしでした。そしてみんな、とにかくキラキラしていて眩しくて仕方なかった。皆さんが今後、どのような道に進まれるのか、楽しみでなりません。
できればいつか、あの時の演劇祭で…みたいな感じで10年後、20年後に思わぬ場所で再会したいものです。
さて、本題に移ります。
これから各劇団ごとに講評を書いていきますが、それぞれが独立したものではなく、すべて繋がっています。そして一つの作品について書かれたことは、その他のすべての作品にも当てはまります。自分の劇団だけではなく、できればすべての文章に目を通して頂きたいです。もしかしたら何か発見があるかもしれません。
予防線を張るわけではないのですが、講評されるのは嫌なもんです。演劇を続けて20年になりますが、僕は今まで自分の思った通りの評価をしてもらったことはほとんどありません。
「全然わかってねぇな」
いつもそう思ってやってきましたし、信じられないことに今もそうです。
理解されないというのは本当に悔しいもんです。別に理解されたくてやってるわけではない、でもいざ理解されないとなると自分自身を否定されたような気持ちになります。
なぜそんな気持ちならないといけないかといえば、明確な理由があります。
つまり「あなた」の劇を見てくれる「受け手」は「作り手」である「あなた」ではないという、どうしようもない事実があるからです。見方、考え方がそもそも全く違う、だからそれを受け入れることでしか作品を作ることは出来ないのですが、しかし、やっぱり受け入れ難い、如何ともし難い、この気持ちをどうしてくれよう。
でもその悔しさが、演劇を続ける原動力になっているのは、紛れもない事実です。演劇に限らずですが、続けることでしか見えない風景があります。
と書きがながら、実はこれ、皆さんに伝えたいのと同時に、書き手である僕自身に言っているのでした。どいつもこいつもわかってねぇな……今日も今日とて、もんどりを打つ日々です。
【A-1 劇団洗濯氣】
空に絵を描く表現者という、主人公の造形に心惹かれました。「空」という言葉は自然と「自由」という言葉を連想させるので、この主人公が「表現の自由」のメタファーであることは容易に想像がつきます。そのシンプルさが良いです。なぜなら「表現の自由」は人によって捉え方が様々だからです。シンプルだけどここには無数のドラマが埋まっている、つまり「深い」のです。
また、表現者、絵を規制する検閲官、そしてその上司の三角関係をドラマの中心に持ってきたのも良いです。これもシンプルですが、演劇を作る上での基本フォーマットですので、45分と設定された演劇祭で発表するには適したサイズ感だと思います。それから舞台の使い方も上手いと思いました。特に取調べ室のシーンは西部講堂が元々持つ薄暗さ、埃っぽさが取り調べ室のリアリティを底上げしていましたし、照明も良かったと思います。
もったいないなと思ったのは、テーマもフォーマットもシンプル、故に受け手に届きやすい構造を持っているのにも関わらず、作り手側が疑問を持たなければならない箇所をスルーしてしまっている点です。
つまり「空に絵を描く」という行為を、どのように「演劇」で成立させるか、そこへの考えが至っていません。もしかしたらすでに散々考えた挙句、あのような表現になった可能性もありますが、だとするならもっと再考の余地があったのではないかと思います。
いうまでもなく「演劇」で「実際」に「絵」を描くことはとても難しいです。なぜなら「演劇」の作り手は画家ではないし、仮に画家であったとしても45分の時間制限で「絵」を描くことは難しいでしょう。だとするなら別の方法で、舞台で「絵」を描かなければいけません、しかも空に。
普通に考えると無理ですよね?
そう、「絵」と「演劇」は相性がとても悪いのです。
でも諦める必要はない。
これは「演劇」です。
実際に「絵」を描く必要なんてこれっぽちもないのです。
つまり受け手の心の中に「絵」が描ければいい。
ではその方法は?
照明を赤くすれば、空に「絵」を描いたことになるん?
本当に?
じゃあ雲を模したパネルを用意して、そこにペンキをぶちまけるのはどやろうか?
本当に?
じゃあ舞台上に小さな湖を作って、そこに絵の具を垂らしていくのはええんちゃう?
本当に?
そうやって一つずつ、可能性を探っていくんです。
できれば演出家一人ではなく、座組のみんな全員で。
必ず受け手の心に「絵」を描く方法があるはずです。
これを突き詰めていくと「演劇」とは何か?に必ずぶち当たります。
でも「演劇」とは何か?との戦いなくして、「演劇」はあり得ないのです。
【A-2 演劇ユニット くじら74号】
「演劇」を「演劇」たらしめている四大要素は何かと問われれば、僕はこう答えます。
「心」「身体」「台詞」「コミュニケーション」です。
この4つを正確に理解することが、実は「演劇」をやる上でコツです。
学生劇団あるあるなのですが、演出家も俳優も「台詞」をどう言うかに囚われてしまうことが度々あります。
例えば、
「この台詞は抑揚をつけて」「わかりました」「もっと悲しそうに台詞を言って」「わかりました」「この台詞はもっとテンポ良く」「わかりました」etc
なるほど、確かにそのような演出はあり得ます。ただその時、俳優の「心」「身体」がどうなっているかを皆さん、意識されていますでしょうか。
「演劇」には脚本があります、台詞があります(※脚本のない、台詞のない「演劇」はこの際、横に置いておきます)。
だから勘違いしがちなのですが、「台詞」があって「心」と「身体」があるわけではないのです。
まず何よりも舞台上に俳優の「身体」と「心」があって、その後で脚本の「台詞」があるのです。
わかりやすい例を挙げます。みなさんはA役の俳優だと思って読んでみてください。
場所:鴨川の土手。
Aがやってくる。
Aはおもむろに土手に座る。
体育座りで川を見つめていると、後ろからBに声をかけられる。
B 久しぶり!
A (立ち上がって)……久しぶり。
ここで伝えたいのは、(立ち上がって)の部分をどう俳優が細分化し、次の「……久しぶり」に影響を与えるかということです。一例をあげてみます。
Aは何かを思い悩みながら歩いていくる(心の動き)→鴨川の土手に座る(身体の動き)→Bは鴨川を見つめるAを見つけると(身体の動き)、Bの心に「久しぶり」という感情が芽生える(心の動き)→Aに駆け寄る(身体の動き)→Bは久しぶり!と声をかける(台詞)→Aは振り向く(身体の動き)→最初は誰かわからない(心の動き)→だがすぐにBだとわかる(心の動き)→久しぶりという感情が芽生える(心の動き)→Aは立ち上がる(体の動き)→久しぶりと返答する(台詞)。
いかがでしょうか。
これだけの「心」と「身体」の動きがあって、初めてAもBも「久しぶり」という台詞が言えるわけです。
ここで注目してほしいのが「心」と「身体」は連動しているということです。皆さんも経験があると思いますが「心」が軽いと「身体」も軽いです、「心」が重いと「身体」も重いです、演技も同じです。
「心」が動く→「身体」が動く→「台詞」が生まれる。
「身体」が動いて、「心」が動くこともあります。いずれにせよ、「台詞」は最後です。
これが「演劇」の基本です。
※さらにいうと「心」は見えないので、実際に「心」が動く必要はないのです。受け手に「心
が動いて「身体」が動いたように見えれば「演技」になるのも「演劇」の面白いところなんですが、皆さんの頭に「???」が浮かぶ可能性があるので、そこは突っ込まないでおきます。
この順序をすっ飛ばし、「心」と「身体」を蔑ろにして、先に「台詞」を言ってしまうと、途端に俳優は舞台上に「存在」できなくなる、少なくとも受け手はその「存在」の手触りを見失ってしまいます。
くじら74号の作り手は、「身体」「心」「台詞」のことを大変よく理解してると思いました。作品自体はとても淡々としているのに、最後まで観れるのはそのせいです。ちゃんと「心」と「身体」の準備が整ってから「台詞」を俳優がいうので、確かにそこに「存在」を感じることができます。
時々、学生演劇をやっている俳優さんの中に、物凄く演技が上手いなぁ、何が違うんだろ?って人がいますよね?大体、上記した基本ができています。本能的に基本を理解している場合が多いんですね。
話は変わりますが、「広島」を題材に持ってきたことも他の審査員も含め、評価が高かったです。どうしても皆さん、学生さんなので描く世界が限定されてしまいます。アルバイト、演劇、恋愛、承認欲求…どれも皆さんの身の回りと「内側」とにあるものばかりです。もちろん、それらは否定すべきものではありません。でも「広島」を考えることは我々の暮らす「外側」、つまり「世界」を考えることでもあります。演劇を続けていると、あっという間に描くことがなくなります。そこで初めて自分の「内側」には大したものなんてないことに気がつく。そして自分以外の「外」(世界)に目を向けるのです。
【A-3 劇団深夜特急】
冒頭、作り手が舞台上に現れて「出来るだけ肩の力を抜いて観て下さいね」と言いながら、その本人が一番緊張して肩に力が入りまくっていた時点で、僕はこの作品が好きになりました。要は身体が嘘をついていないんです。緊張した身体が緊張したまま、舞台の上に乗っている、なのに作り手は受け手の身体の状態を気にしている、このギャップが面白かったです。身体同様、言葉にも嘘がありませんでした。彼だけでなく、他の登場人物にも嘘がありません。本当にすべての登場人物がお笑いが好きなんだなとわかりました。人が何かを好きだという気持ち、それが舞台にのると、誰もが感動してしまいます。それは「何かを好きである」ということが、この世で最も尊いことの一つだからでしょう。
それから作家(演出家)が俳優それぞれの個性をしっかりと理解している点が好きでした。僕も当て書きが好きなのでよくわかります。ヤバ太郎が暗闇の中で光り出した時は正直、これが今年の大賞だと思いました(選から漏れたこと、本当に残念です)。あと主人公の子が鈴木亮平に微妙に似ていたのも愛しくてたまりませんでした。相方の俳優さんも佇まいが絶妙です。
惜しいなと思ったのが劇の構成です。各キャラクターは文句なしだったけれど、45分内で何ができるのか?ということにもっと思いを馳せれば、更にいい作品になったと思います。無駄な時間が多かったかもしれません。例えば、日記の使い方とか。現状、あの日記はシーンの繋ぎとしか機能していないように思えました。そこはもっと貪欲でいいと思います。日記とは「記憶」を残す装置です。「記憶」は「演劇」と物凄く相性がいいです。わかりやすく、すでに芸人として成功した男の回想で物語を始めてみる、或いは芸人として成功しなかった男が回想している、とか。それだけで日記の意味が出てくるし、物語に時間軸が追加され、すべての登場人物にさらなる奥行きが出るかもしれません。
あと個人的にコンビとヤバ太郎の三角関係が見たかったです。三角関係は演劇の王道です。もっとグチャグチャになったところを見たかったです。
【B-1 劇団ACT】
壮大な世界を45分で描いてやろうという野心に心惹かれました。僕は無茶をする作家や劇団が好きなので正直、肩入れをしたくなります。実は台本を読ませてもらったのはこの作品だけ。妙にひっかかりを覚える台詞が複数あったからです。
テロース「死ぬつもりはない。この国は故郷だ。これ以上に美しいものはない。しかし、思う節はあるのだろう。柔らかい言葉に包まれて、凝り固まった未来へと向かう」
ディガ「あなたのせいです。私にとって、私の国の教えがすべてだった。弟もいつか怪物を倒すんだって。でも怪物なんていなくて、ただ鐘がなっているだけだった」
難解ではありますが面白い台詞がてんこ盛りです。宗教、呪い、怪物などが物語の随所に出てくるのも好きでした。ただ気になったのは、くじら74号の講評で記した演劇の四大要素の一つである「コミュニケーション」が不足している点です。
ここでいう「コミュニケーション」とは何を指すのか。
大きくいうと二つあります。
一つは、舞台上の俳優同士のコミュニュケーション。
もう一つは、舞台(作り手)と客席(受け手)のコミュニケーションです。
この講評では二つ目のコミュニケーションについて書いてみます。
「え?でも「演劇」って作り手が作ったものを一方的に受け手が享受するものちゃうん?」と考えている方、多数いると思います。
でも僕の考えは違います。「コミュニケーション」という言葉がしっくりこない方には、では「共同作業」と言えばどうでしょうか。ちょっとイメージしやすくなったでしょうか。
皆さん、舞台上に立っている時、お客さんの雰囲気を感じることってありませんか?今日は何となくやりやすいな?とか何となくやりずらいなとか。或いはお客さんがしっかり見てくれているなとか散漫だなとか。やっぱり影響を受けるんですね、舞台上の俳優は。それはなぜかというと受け手の視線に晒されて初めて「演劇」は成立する、つまり「演劇」は作り手と受け手の「共同作業」によって成立しているからです。
(※じゃあ客席に受け手のいない「演劇」は「演劇」ではないのか?非常に興味深い「問い」ですが、ここでは「やっぱりお客さんはたくさんいたほうがいいよね、たくさんの人に見てもらいたいよね」という立場から書いています)
『エスカフォロース』は作り手と受け手の共同作業がうまくいっていない箇所が多数、ありました。理由は簡単です。受け手が舞台上の情報を処理する前に作り手は先に物語を進めてしまうため、受け手がリアクションをとることが難しかったのです。もっと具体的にいうと、この作品世界には、日常的には使われない固有名詞や考え方が多出します。そして作り手はそれらの言葉を自明なものとしてしまっているためです。受け手は無意識のうちに、舞台上から立ち上がる情報を受け取っているものです。その情報を的確に受け手に受け取らせて、何らかのリアクションをもらえるように操作するのが、演出家(作り手)の仕事です。場合によってはわざと受け取りづらくして、受け手に「それってどういうこと?」と疑問をもたせ、受け手の興味を引っ張っていく高等技術もありますが、ちょっと本作ではわからなすぎたきらいがあります。ここにコミュニケーション、共同作業の断絶がある。すると途端に受け手は作り手から離れていってしまう。
一ずつ、丁寧に情報を受け手に手渡し、受け手もそれをしっかりと受け止め、舞台上に何かを返せれば(笑い、舞台上への強い集中力、眼差し、興味etc)、より良い作品になったと思います。
【B-2 劇団未必の故意】
たった二人でギリシア悲劇を作ってやろう、そしてそこに「現在」を反映させてやろうという意気込みに心惹かれました。個人的にミザンスが抜群に上手いと思います。ミザンスとは登場人物の立ち位置や装置の配置のことを指します。
「ミザンスってそんなに重要なん?」
めちゃくちゃ重要です。なぜならそれぞれの人物の立ち位置が、その作品における人物の関係性を最も雄弁に語るからです。
簡単な話です。好きな人には近づきたい、嫌いな人からは離れたいでしょう?それと同じです。
特に印象に残ったシーンが二つあります。船を舞台後方に作り一人を配置、もう一人は舞台中央に。本当に遠くに海が見えました。思わず心の中で「かっこいい!!」と喝采をあげてしまったことをよく覚えています。もう一つは、どのシーンだったか失念したのですが、暗い舞台の奥から二人が一緒に舞台前方に歩いていく、徐々に二人の表情が見えてくるシーンも印象的でした。
せっかくなので少しだけ照明と音響の話をします。
これも学生の皆さんは往々にして勘違いしがちなのですが、照明というのは舞台上の雰囲気を盛り上げたり、幻想的にしたりするためのものではありません。
照明と音響は、実は舞台上の俳優の「心」と「身体」に連動しています。
照明も音響も、舞台上にある「心」と「身体」の反映です。
舞台上にいる人物の「心」と「身体」が動いて初めて、明かりや音が変化します。
例えば、AがBをナイフで刺すシーンがあったとしましょう。
この時、照明が赤くなってから、AがBをナイフで刺すと舞台効果として照明は成立していません。Aがしっかりと「殺してやる!」という気持ちになって初めて照明が赤く変化するのです。
これも結構あべこべになっている団体が多い印象です。その点『王女メディア』は音響、照明の使い方も良かったと思いました。
あと別の話ですが、照明は基本的に俳優の「身体」をしっかりと舞台上に浮かび上がらせなければいけません。俳優の顔が影になって、全く見えなくなることがどの劇団にもありました。これは非常に勿体無いです。だって皆さんの演技が見えづらくなっている、それはイコール、受け手が舞台上から受け取る情報が格段に減るということです。演出家の皆さんはぜひ、場当たり中にちゃんとすべての俳優の顔が見えているか確認しましょう。
話を「王女メディア」に戻します。
作品自体はおそらく女性の生き様を描こうとしたものだとは思うのですが、前述した「台詞」と「身体」「心」の順番があべこべなシーンが多く、思ったよりも私には伝わってきませんでした。また途中で録音の声が入ってきますが、果たして入れる必要があったのか疑問です。僕は最後まで二人だけで作品を完結させることも或いは可能だったのではないかと思います。それからこれは劇団ACTの講評で述べたことの繰り返しになってしまいますが、45分の尺で描ける分量というのは決まっています。45分なら船を出すところまでかなぁと思いますがどうでしょうか。それじゃあ起承転結にならへんやんと思われるかもですが、そんなことはありません。船は出すシーンまでだけで二人の生き様を描くことは「演劇」ならば可能です。
【B-3 劇団愉快犯】
舞台美術、照明も音響もなし、いるのは俳優一人だけ。
舞台上に「バナナ」がある、それを俳優が「これは銃です」といえばそれは「バナナ」ではなく「銃」であるという演劇特有のマジックを遺憾なく発揮した作品でした。
俳優の青木くんが演出家さんと二人で夜な夜な稽古していたことを思うと本当に涙が出ます。身体も言葉もしっかりと動く。ただこれは明確に好みの問題ですが、個人的にもっと宇宙のシーンが見たかったです。宇宙で青木くんの中の細胞や肺が蠢く箇所があったと思うのですが、あれがもっと見たかった。ちょっと日常シーンが多すぎた気がします。青木くんとこの演出家さんなら、演劇で描けないものはありません。だからこそもっと貪欲に!!もっと誰もみたことない空間、物語を西部講堂に描いてほしかった(高望みなのは承知ですが、それぐらい伸び代を感じます)。
またこの手法はすでにパワーマイムという形で90年代に惑星ピスタチオ(佐々木蔵之介がいた劇団)が発明したフォーマットです。それに僕は馴染みがあったので、それとどうしても比べてしまい、新鮮味という点では物足りなかったです。
YouTubeで西田シャトナー×保村大和で検索すれば出てくるのでぜひ、見てみてください。
【C-1 京田辺、演劇ないん会】
おそらくメンタルヘルスに関する作品だと思います。客席を両面舞台にしたのが素晴らしかったです。SNSで他人の動向を逐一気にする我々の凡庸さを無理やり客席で曝け出されたように思えて仕方なく、本当に居心地が悪かったです。終盤、第三者らしき人物が出てきて、劇構造にレイヤーが一枚加わるところが個人的にハイライトでした。増えていく白い箱というアイデアもワクワクさせられました。
ただこの作品も「台詞」と「身体」「心」の順番があべこべなシーンが多く、おそらく作り手が思ってる程には受け手に作品が届いていないかもしれません。
それから演劇で「抽象」を扱うときは十分に注意してほしいと思います。「どこかわからない場所」「いつの時代かわからない」「謎めいた(抽象的な)言葉の数々」というのは、一見すると想像力を働かせる余地が残っているので、何となく「演劇」と相性がいいようにも思えますが、「抽象」を扱うのは相当な技量が問われます。どういうことかというと、「抽象」は「どのようにも見える」のと同時に、言葉を変えれば「どうとでも見える」ということになります。「どのようにも見える」「どうとでも見える」意味は同じですが微妙にニュアンスが違うのがわかりますでしょうか。「どうとでも見える」には何となく投げやりな感じがします。受け手が作品から離れてしまっている感じ。この作品は「どうとでも見える」に寄ってしまったのではないかと思いました。
一つ提案をするとすれば、「抽象」ではなく「具体」で、つまりファンタジーとしてこの作品を上演するのではなく、僕らの現実世界に実在するメンタルクリニックを舞台にしてみるのはどうだろうかということです。もちろん現実世界のメンタルクリニックを舞台にするには相当な取材量が求められます。でもメンタルクリニックは私たちの暮らす世界で身近なものです、身近なものであればあるほど、受け手は舞台上で起こることにコミットしやすくなります、次作は一度、ファンタジーから離れてみるのもいいかもしれません。もしかしたらそれは皆さんが「演劇」でやりたいことと違うかもしれませんが、遠回りをすることで見えてくるものもあることだは伝えておきたいです。
【C-2 灯座】
この作品は僕が上記した演劇の四大要素の「コミュニケーション」をもっとも使いなこしていると感じました。
客弄りと言えばそれまでですが、否、侮るなかれ、これは演劇の基本中の基本です。
きっと客席の反応はその日によって変わったはずです。客席の反応が変われば当然、演者の反応も変わります。そして演者の反応が変われば、客席の反応も変わります。その連鎖がこの作品を形作っていくのです。そうめんを導入するというアイデアは本当に秀逸です。受け手が全員参加できるし、謎のワクワク感がありますから。あと偉いなと思ったのが、その場でそうめんを茹で始めたこと。これがもし、茹でたそうめんを持ってきたら台無しです。ちゃんとそうめんを茹でる時間、これが大事です。
嗚呼、思った以上の長文を書いてきたので、ちょっと疲れてきました……
なので解説すると長くなるのでしませんが(ごめん汗)、そうめんが茹で上がるまでの時間にこそ「演劇」があるからです。
それからループ構造というわかりやすさで、そうめんの、はちゃめちゃさをカバーしているのもクレバーだと思いました。(この作品も選から漏れたことが残念で仕方ありません)
【D-1 劇団,白薔薇】
僕の考える演劇の四大要素をすべてクリアしていたのは、ここだけでした。
本当に驚きました。
すでに僕より脚本も演出も上手いです。
正直、いうべきことがありません。
そうや、『王女メディア』の講評で<<照明も音響も、舞台上にある「心」と「身体」の反映です。>>と前述しましたが、音響効果に関する好例があったので書いておきます。
この作品、途中で電車が通り過ぎる音が入ってきましたよね。
あれは「喫煙所の近くを電車が走っている」という状況説明ではないんです。
あの音は、僕たちはまだこの場所にいたい、でも必ずお別れをしなければならない、あの3人組の心の反映です。これが本当の音響効果だとぜひ、覚えてほしいです。
嗚呼、さらに書きすぎて疲れてきました汗
もしこの演劇祭に俳優賞が存在するならX LARGEの子に差し上げたいです。
あの男子は、間違いなく学生時代の「僕」です。
すっかり中年となってしまった僕の記憶を無理やり引き摺り出して、僕の心を鷲掴みにする。
うまくハマった時の「演劇」の破壊力はエグいです。
だからみんなやめられないのです、「演劇」が。
【D-2 劇的集団忘却曲線】
上演終了後、作演出の学生さんが話しかけてくれました。
「どうしたら面白くなりますか?」
これはなかなかできることでありません。その勇気に敬意を抱きます。
かつて20代だった自分の経験から言わせてもらえれば、当時の僕はプライドの塊のアホでした。
実績のある演劇作家に弟子入りしているような人間を心底憎んでいました。と同時に死ぬほど羨ましがっていました。でも僕にはそんな人の元へ学びにいく勇気も、謙虚さも持ち合わせていませんでした。
どうしたら面白くなるか?
難しい質問ですが一つだけお答えしたいと思います。
『Circle mile』には劇団洗濯氣『空と希望のアトリエ』と似たような印象を受けました。
『空と希望のアトリエ』で言及した「絵」を「サーカス」に変換してみてほしいです。
舞台上でどうすれば「サーカス」を表現できるか、それを考えることが「面白さ」に繋がるのではないかと思います。
演劇で「サーカス」をやる以上、本物の「サーカス」よりも面白くなければいけません。
もし西部講堂に本物の「象」を連れたサーカス団がきたとしましょう。
そのサーカス団のショーより、『Circle mile』はワクワクするものになっていますか?
そんなん「象」に勝てるわけないやんと思う人は、「演劇」は向いてません。
「象」よりオモロイ芝居が作れる!と思い込むやつしか、「象」よりオモロイ芝居は作れません。
ここでいう「面白い」はどんな意味の「面白い」でも構わない。「演劇」で「象」を超えるんです。
とにかく発想を変えてみましょう。
どうすれば「象」も「空中ブランコ」も登場させずに「サーカス」を舞台にした作品が作れるだろうか?
だったら「象」も「空中ブランコ」も登場させなければいい。
例えば舞台をサーカス会場ではなく、サーカス会場の楽屋のみに限定してみたらどうでしょうか?
楽屋には今日もサーカスの準備を行う劇団員がいる。
そこへ舞台袖から檻から逃げ出した象の鼻(作り物)が侵入してくるとか。
ワクワクするのは僕だけでしょうか?汗
もしかしたら作家の学生さんは「いや、僕が描きたいのはサーカスそのものではなくて、ピエロを通した、主人公の二面性なんだ」というかもしれない。
その描きたい気持ちは素晴らしい。ただ主人公の二面性だけを描いてしまうと前述した「抽象」に陥ってしまう可能性が大です。その「抽象」とバランスを取るために「サーカス」という舞台はできるだけ「具体」である方がいい。そしてその「具体」を表現するにはサーカス場ではなく「楽屋」の方が適切ではないかという提案です。「抽象」を描きたい時こそ、「具象」を描く。これも「演劇」を作る時のコツです。
あとは前述した演劇の四大要素を徹底的に研究してみてください。
「心」「身体」「台詞」「コミュニケーション」、これを意識するだけ見違える程、作品の完成度も受け手の評価も変わるはずです。
つい熱くなって長くなってしまいました……
演劇の話なら、永遠に続けられます。
皆さんのこと、応援してます。
ではまたどこかで。

渡辺健一郎さま
【A-1 劇団洗濯氣】
芸術表現が鑑賞者の心を狂わすというテーマは普遍的なもの。私はそこに関心が強いだけに、物語がいっそう深まっていくのを期待してしまった。空職人がどういう存在なのか、何を創造しているのか、人にどのように影響を与えてしまうのか、具体的にイメージを広げていけばもっと面白いはず。もし空自体を創造/改変するのだとすれば確かにとてつもない影響力を持つため、空職人は自由に表現して良い、と楽観はできなくなるだろう(逆に大した影響力もないなら検閲の必然性もなくなってしまう)。こうしたこと掘り下げていくほどに、ストーリーは複雑になり、創作は難航するかもしれない。が、そうしたコンフリクトこそが演劇をいっそうドラマチックにする。飛躍に期待。
【A-2 演劇ユニット くじら74号】
クライマックスの紙飛行機を投げるシーンですべて持っていかれた。表情や動作の機微ですべてを物語る演技スタイルとその技術、俳優賞があったなら私はこの団体にあげたい。それだけに、後のミナトとの別れのシーンはなくてもよかった。主人公の決断を重く見せたいなら、彼にもう少し才気を感じさせた方がいい。否定ばかりのノーセンス高慢大学生にしか見えず、別れを描かなくても当然そうなるだろう、という印象を持った。二人の関係にもかなりの比重が置かれていたので、この問題は小さくない。また、鴨川と広島のデルタを重ねる発想はとてもよかったが、京都の観客には広島デルタがイメージしづらい。より強靭なドラマ性を喚起する可能性がこの辺りにあったかもしれない。
【A-3 劇団深夜特急】
芸人として舞台に立つシーンがもっとも魅力的にみえた。これはもちろん長所でもあったが、もっと考えてみるべき点でもある。「お笑い」だとはっちゃけられるとか、おそらくそういうレベルの問題だけではない。漫才やコントの場面では、登場人物の相対している「観客」と、実際の観客(われわれ)とが一致するために、演じやすかったのだろう。いっぽう日常の会話場面では、俳優がわれわれ観客とどういう関係を取り結べば良いのか、態度が定まっていないように感じられた(これが演劇の最大の難所の一つなわけだが)。舞台上と日常とのコントラストをはっきりさせるためにも、日常のシーンで割り切った「演技」の徹底を目指してみてもよかったかもしれない。
【B-1 劇団ACT】
虚構世界に特有の用語や思想を、説明せず持ちだす気概は良い。ただしそうした言葉の数々は、世界観が安定していなければ浮遊してしまう。世界観とは単なる設定のことではなく、当の世界で人々がどのように生きているのかというまさにそのこと。例えば今回の大きな要素である教会。その存在感はどの程度か、どれだけの権力を持ち、市民からどのような扱いを受けているのか、など。そうした当の世界が要請する人間関係の見取り図がよく分からず、少女も市民も聖職者もほとんど同じ平面上にいるように見えてしまった。無論、この意味での世界観を短時間で示すのは容易ではないが、身体の使い方や人物の配置などを洗練させるだけでもまったく違ったはず。演劇に可能な表現をさらに探究してほしい。
【B-2 劇団未必の故意】
現代に即した翻案と淡々とした演技で、2,500年ズレをものともしない、神話の優れた再象徴化を観た。観客をイアソンに見立てる演出も良い(イアソン側の音響にこだわれるとなおよし)。創作よりもこうした翻案上演の方が、私は演劇の醍醐味を味わえると思う。ただ、言葉とその発話以外の要素については、再考の余地がありそうだった。例えば人が倒れるSE、炎を示す赤い照明、揺れる帆などは、漫然と具象を志向しているように感じた。
また最終盤、イアソンに謀略をしかける際、メディアがすでに狼狽の様相を呈していたが、したたかな「演技」が必要だったのではないか。観客に最大限の狂気を示すには、狂気を前景化させてはいけない。これは演劇の根幹にかかわる問題なだけに、取り組みがいがあるはずだ。
【B-3 劇団愉快犯】
俳優が良いのは言うまでもないが、観客への観劇態度のレクチャー(本来なら不要な!)をする冒頭に好感を覚えた。一気に観客を笑う態勢へと誘う力業が大変小気味よい。が、上演全体を通じてハリを保ていたのかどうかはやや怪しい。最初の10分くらいが一番面白く感じた、というのが本当のところ。シーンのブリッジ部分に断続的に挿入される「窓、カーテン、カーテン」でリズムを整える手法などは秀逸だったが、全体のリズムへの視座も要るだろう。後半は、観るというよりも眺めるという態度で座っていたことを白状する。ただしこう感じるのは私の年齢のせいかもしれず、「学生演劇祭」を勢いで押し切るのもアリなのかもしれない、とは思った。
【C-1 京田辺、演劇ないん会】
BGMがとりわけ良く、演技のトーンなど統一的なイメージの形成にこだわりを感じた。ただ様々な「概念」の対立が表面的なところにとどまり、物語が動かず、スライドショーを観ているような感覚になった。ふつう演劇は人間の心理やコミュニケーションの厄介な摩擦部分を動力にする。その厄介さをすべて抽象的に解消しようとすると、どうしても足かせになる。例えばIは他者の闇をとりこんで苦しむが、自身の言葉通り、闇は記号化され、内部で処理される。観客にはその内実が分からない。これを「対立を表面化したくない現代的な人間関係」の表現と見ることもできるが、それならそれで別の動力が要る。Iがマイノリティを、Aがマジョリティを体現せねばならないといった発想などは、徹底すればもっと生かせたかもしれない。
【C-2 灯座】
ちょっとグダグダだなとか、三度のループは冗長だなとか、思うところは少なくないが、何よりいちばん楽しめた。「みんなと仲良くなりたいだけ」というタロちゃんの願いがまさに体現されていた。流しそうめんという題材を掘り当てたのも傑出した点だが、初対面の観客たちの間で自然と協力関係が築かれていったのは、俳優の人間力のなせる業だと思う(グダグダなことが逆に、「協力しなくちゃ」という気分を醸成したのかもしれない)。演劇なる営みを広くとるなら、「その場に集った人間関係をいかに変質させるか」といったことこそが問題なのであり、その意味でもっとも演劇的な演劇だった。観客を巻き込むその仕方を、きっともっと発明してくれるだろうと、希望と感動とを抱いた。
【D-1 劇団,白薔薇】
ユウナのトモロウへの好意などをはじめ、語らずに語ろう、という矜持を端々に垣間見た。声のトーンや間や身体の陰翳などでここまで表現できるのだと、他団体の参加者も感じたことだろう。ぜひ参考にしてほしい。上手い。
学生/演劇の、親密であるがゆえの閉塞感は、心当たりがありすぎる。贅沢なことで恐縮だが、かような親密さが一過性のものだと体感している「大人」からすると、さらに2~3年後、否応なく外へとはじき出された登場人物たちを、このチームがどう描くのかも見てみたくなった。
なお、照明に虫が迷い込んできたこと、外から太鼓の音が聞こえたこと、すべてがプラスにはたらいていた。それが偶然であれどうであれ、劇場の特性が活きた好例であった。
【D-2 劇的集団忘却曲線】
サーカスというモチーフは考えれば考えるほど面白い。それは抽象的空間におけるイリュージョンでありながら、生身の身体の現実性を極限まで突き詰める。危うい綱渡りで虚実のバランスをも保つサーカスは、舞台化のしがいがある。多分それだけに、繊細で難しいのだとも思う。一ついえるのは、台詞や演技や装置(転換)を「現実」に寄せず、もっと大胆に遊んでよかっただろう、ということ。常識からはみ出すくらいで、テーマに見合った色が出る。ピエロでさえだいぶ大人しく見えたが、それは身体よりも考え方の方にブレーキがかかっていたからではないか、と思った。
ちなみに、20世紀前半のロシアの演出家・メイエルホリドが、まさにサーカスになぞらえる身体訓練や演出術を提唱している。参考までに。