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KSTF2023

審査員講評

 

<審査員賞(1~3団体)>
審査員の話し合いにより審査員賞にふさわしい団体を選出し決定。
審査基準は、
1.    フェスティバルにおいて演劇を発表することを追求しているかどうか
2.    演劇の役割を考え、それを実践しているか
3.    新たな価値を生み出しているか
4.    他者に発信する力があるか
5.    今この瞬間に命が輝いているか
の5点である。


 

和田​ながら 氏 

 

全体に対して

京都学生演劇祭に参加されたみなさん、運営に携わったみなさん、たいへんお疲れさまでした。

野外特設舞台で上演を実現させたみなさんのことがうらやましい。もはや、ずるい、とさえ思っている。遠慮会釈なしに線路も道路も唸りたいように唸り、ときに雨風が打ちつけてくる豊穣な街のサウンドトラック。そんな圧倒的な現実に包囲されながら、薄い白いシートの内側でフィクションを構成するというぞくぞくするようなスリル。虚実皮膜という言葉を生真面目にリアライズしたかのようなあの環境は、そしてその中でみなさんが体感したであろうひりひりした感覚は、望んでも得られるとは限らない稀有なものだと思います。

それから、みなさんがまじめに演劇に取り組んでいるということに爽やかな気持ちになりました。でも正直に言えば、少し物足りないような感じもあった。まじめは美徳でもありますが、常識的な範疇におさまっているだけでは、おもしろさに届かない。

たぶん語弊はあるのですが、わたしは演劇を「悪用」しているような作品を見たいのだと思います。なにかを「悪用」するためには、まず、そのなにかを知悉していなければならない。そのなにかの得意なこと、できないこと、抜け道、応用可能性、リスク、そのすべてを、しかし知っているだけでは駄目で、持て余さず使いこなせないといけない。わたしが言おうとしている「悪用」とは、まじめさから逸れていった先にあるとは限らず、むしろまじめを徹底していった先にあらわれるラディカルさ、ということなのかもしれません。もちろんこれはそのまま自分に跳ね返ってくる言葉です。もしわたしが中途半端な作品をつくっているのを見かけたら、まじめにやれ、と言ってください。そして、もし活動で困ったことがあったら、気兼ねなく京都舞台芸術協会に相談してください。

 

※和田はいずれのブロックも初日を観劇しました。

Aブロック

 

ヨルノサンポ団(U30)『とりかご』

白い線をなぞって歩き、踏み外したらマグマに落ちてしまう、という遊びが冒頭に行われていたのが印象に残っています。想像力を資源とするあの「ごっこ遊び」は、演劇そのものの謂であったろうと思います。想像力によってあらゆる空間が体験可能である、という演劇の武器がオープニングに示唆されていたからこそ、子供部屋を具象的に説明する置き道具が家以外の空間を展開していくときに舞台上の枷になっていたように感じてしまい、もったいなく感じました。説明的なオブジェクトはなるべく切り詰めて、空間の広げ方は思い切って演技のみに賭けるという可能性もあったかもしれません。

ココ、クク、トーマといった年若いキャラクターに物語の重心が置かれているように見えましたが、「子供」というのは演劇にとって難易度が高いモチーフだと思います。シンプルでピュアであることを「子供」という属性に安易に託してしまい、ともすれば大人による「子供」の神話化につながってしまうリスクをどのように創造的にクリアするか? わたしには、今回の作品はそのリスクに呑まれてしまっているように感じました。一方で、作劇としても演技としても、「子供」をはじめとする「幼さ」の表象は、取り組み甲斐のある興味深い課題だという思いも強くなりました。「子供」への理想を抱いている「大人」である母のキャラクター造形には、演劇における「子供」を批評しうるチャンスがあったかもしれません。

 

ひゅーまんシアター『本当だって』

家族のあいだのちょっとした冗談が記憶の自律性を揺さぶり、記憶を書き換えさえしてしまう。個人的にもちょうど、演劇はホラーをもっと追求できる、と考えていたところだったので、テキストがたたえているホラーみにかなりしびれました。一方で、空間と演技の可能性はまだまだ潜在していると感じました。

空間は、リアルを追求するのか、それともフィクショナルな歪みを仕掛けるのか、今回の上演はどっちつかずだったという印象です。もしリアルを追求するのであれば、たとえば、四人で食卓を囲んでいるのに舞台手前側に誰も座らないのはおかしい。リアルであることによって、舞台手前側に座って観客席から表情が見えないキャラクターがいたらおもしろかったかもしれない。フィクショナルな歪みを仕掛けるのであれば、たとえば映画の『家族ゲーム』みたいに正面を向いて一列に座ってみてもよかったかもしれない。

演技については、台詞をしゃべっている人物以外の居住まいが単調に感じられてしまったのがもったいないと思いました。そもそもわたしたちの日常生活からして、しゃべっているよりも黙っている時間のほうが遥かに長いわけです。ということは、台詞をしゃべっている時間をどのように組み立てるかよりも、黙っている時間をどのように過ごすか、という方が、俳優の演技を考えるときには実は重要なのかもしれません。そして、ホラーはなおさらに、台詞をしゃべっていない人物のあり方こそが、空間の緊張感や違和感を支える重要な要素なのかもしれません。

 

劇団透明少女『身毒丸』

野外特設舞台というノイズの多い環境で作品を成立させるためには、ただ強ければ成立するわけではないという留保つきではありますが、ある種の「腕力」のようなものが求められていたと思います。たとえば、世界観の徹底、台詞の詩情、俳優の存在感、スタッフワークの説得力といったような。本作の上演からはその「腕力」をびりびりと感じました。いかがわしく、なまめかしく、むわっと立ちのぼる熱気はテント芝居の醍醐味にあふれていました。しかし、場面の切り替わりに多用されていた暗転が上演の「腕力」をたわめてしまっていたように感じられました。暗転を挟まずとも場面を積み重ねていける力がじゅうぶんにある劇団だと思えるだけに、残念でした。

令和という時代に二十代を過ごすであろう人たちが、この演劇のスタイルにどのようなリアリティ/アクチュアリティを感じているのか? ということを、知りたいと思いました。スタイルへの取り組みがまじめであることは疑いようもないけれども、スタイルの選択に必然性を感じ取ることが、少なくともわたしにはできなかった。もしかしたら、やっているみなさんもまだはっきりと掴みかねているのかもしれない(自分のやっていることをやっている当人が十分に理解するのには思いのほか時間がかかってしまうものです)。これからみなさんがこのスタイルになにを見出して、現在と接続し、そして世界に対して上演を仕掛けていくのか。あるいはこのスタイルから颯爽と去っていくのか。動向を追いかけたいと思います。

 

 

Bブロック

 

劇団フォークロア『サリとルーの千と一の幻夜たち』

演技やスタッフワークが結託して盛り上がりをつくっていく「腕力」がしっかりあるチームだと感じました。上演中、雨が降ってきていましたが、その環境に押し負けず、むしろ盛り上がりに使ってやろうという貪欲な野心が見えて、好感を持ちました。

観客に直接語りかけてくるナレーターがいて、サリとルーという共通した呼び名をもつ二人組の関係が劇中劇的に3つ展開される、という劇構造。サリとルーの無数のヴァリエーションが示唆され、観客もまた物語の一員でありうるという呼びかけは、マルチバースのような世界観で印象的でした。

テキストはまだチャレンジの余地がありそうです。ナレーターのせりふは、言葉で設定や人物の心情を説明している割合が多いな、と感じました。劇中劇のシチュエーションがあまり展開しないというのも、説明的になってしまう要因のひとつだったかもしれません。

また、物語の中では重要な要素であるはずの「もの」たち(置き道具、小道具)が、舞台上であまり機能していないのがもったいない、と思いました。わたしは、この作品に限らず、多くの演劇において、ものが単なる記号に縮減され、道具として従属させられ、雑に扱われているように感じていて、それが個人的にものすごく不満なのです。実のところほとんどの俳優はものにきちんと触れるということさえできていないんじゃないか、とさえ思います。でも、このチームがそなえている美意識があれば、ものへのアプローチも、もっともっと研ぎ澄ませることができるはずだと思いました。

 

青コン企画(仮)『贋作E.T. の墓』

SFと演劇の相性は世に思われているよりもすこぶる良いから、演劇はもっとSFをやるべきである。というのがちょうどこの夏のマイブームだったこともあって、タイトルにあの名作SF映画を引用している本作への好感度は観劇前から高かったのですが、作品はその期待をはるかに越えていきました。しかも、直前に出演者がひとり欠けるというタフな状況にもかかわらず、いやむしろそんな状況だったからこそ、タイトロープをゆくような感覚に観客を巻き込んでいった、とても充実したパフォーマンスでした。

言語感覚やメタファーの豊かさと、それらを空間へ書き出していく知性もさることながら、クライマックスの鍵がフィジカルな動きだったというのが、わたしにとって非常に重要な評価のポイントでした。本作のように、観客の前にさらされてしまう身体のどうしようもなさを引き受けながら、観客の想像力と共犯になって、身体がそこにあるということでしかできないことをやる、というのが、舞台芸術の勝負のしどころに違いありません。

パスティーシュであり、メディア論的であり、メタ的に戯れつつもフィジカルを泥臭く投入するというのはまさしくまじめな「悪用」だなあと思えて、勝手に嬉しくなっていました。全国学生演劇祭で、全員揃ってのフルスペックの上演がどうか叶いますように。

 

後付け(U30)『丸ゴシック定礎』

今回唯一、過去に拝見したことのある団体で、作風もその力も存じ上げていましたが、その期待を裏切らない上演を見ることができてとても満足しました。テキストの出処である日常に差し向けられたするどい観察眼には愛と悪意が満ちている。舞台上はあらゆる要素が最小限に切り詰められていて、照明・音響も手数の潔い少なさが最大の効果を発揮していて鮮やか。俳優個々のグルーヴがテキストと演出の両面から引き出されていて、演技と空間のリズムがクセになる。チーム全員が、この団体特有の「ノリ」を軽やかに信じている。

クオリティにおける安定感の高さがすばらしいと感じるからこそ、今後の活動がどうなっていくのか、勝手にハラハラしています。淡々と活動を継続しながら職人的に技術が高まっていく、というのが順当な予想かつ一ファンとしての望みでもあるのですが、そんな安易な想像はぜひとも裏切ってほしい、という裏腹な気持ちもあるのです。たとえば、たとえばですよ、後付けが『ロミオとジュリエット』とかやってみたらどうなるんだろうとか考えてはまあ本当に余計なお世話だなとひとりで反省しています。

 

Cブロック

 

演劇ユニット日光浴『こたへさがし』

ひとりの人物の動向をめぐる複数の人物の強い感情、というものが中心的なモチーフとして扱われていたかと思います。この強い感情というものはけっこうなくせもので、日常的な会話をモデルとしたテキストかつ日常の延長であるような演技スタイルの中で扱うのはとりわけ難度が高かったように思いました。「日常」を装おうとすることは、強いものや激しいものが、むしろその強さや激しさのゆえに「日常」にまるめこまれてしまうというリスクを抱えてしまいます。青鬼/赤鬼のストーリーは寓話性が高く、「日常」の圧力に絡め取られずに、シーンに託されたイマジネーションを機能させることができていたように感じましたが、パラレルに進行していた日常的な物語とのリンクがいま少し弱かったのではないかとも思いました。

どうやって「日常」の圧力を回避するか、あるいは制するか。さまざまな選択肢がありえますが、わたしは、思い切った引き算が有効かもしれない、と思いました。たとえば、紅葉役あるいは広殻役(もしくはその両方)が舞台上に不在であるとか。紅葉と広殻が俳優の身体を伴って観客の前にあらわれると、晴翔と綾香から紅葉に寄せられる強い思慕も、広殻に向けられる敵対心も、日常をモデルとしたリアリティのなかでは過剰に感じられてしまう、という据わりの悪さがありました。でも、もし紅葉と広殻が姿を直接あらわさないままこの物語が語られていたら、春翔と綾香のエゴイスティックだけれども人間的な感情というものにもっと集中できたかもしれない。演劇は「不在」を扱うのがけっこう得意なので。

 

らせんの目『密度の実験』

ビードロ・ポンピイさんの歌の華やかさと、観客席に向けられた堀さんの強い眼差しが印象的で、心をグッとつかまれる魅力的なパフォーマンスでした。上演のどの時間帯においても、おふたりがイーブンに作品を引き受けて舞台上に存在していて、現在という時制やあの場所との対峙にゆるみがありませんでした。あまりうまく説明できなくて情けないのですが、テキストがはらんでいた迫力とでも呼ぶべきものを、びりびりと感じていました。説明的な要素が排除されていたために、観客がリラックスしておふたりの表現を受け取ることができたのだろうと思います。月のようにも見えたふたつの球形のオブジェも美しかったです。

とはいえ、あられもない欲を言えば、オブジェにもうひと活躍ぐらいしてみてほしかった。また、シンプルであることの強さが重要だったことを承知の上で、構造や見立てといった演劇的な知恵があともうひとさじでも組み込まれていてほしかった。「演劇」を軽やかに乱用してパフォーマンスをブーストするということがおそらくこのチームにはできたのではないだろうかと思うから。(よいものを見たときほど、まあ浅ましい欲が出てしまうものですね。)

異なる分野のアーティスト同士のコラボレーションは、それぞれの分野の文法や優先順位の相違のために難しさを感じることもあると思いますが、とにかく、ハマったときの快感がすごい。一度知ったら後戻りできなくなりますよね。次の作品も拝見できるのを楽しみにしています。

 

劇団FAX(U30)『てんとう』

かなりスポーティなスタイルの作品だと感じました。運動量と速度がかけあわされて、反復とアンサンブルがブーストされていく。ただ、この運動量と速度がいったいなにを目指しているのかがわたしにはあまりつかまえられず、繰り返されるフォーメーションをただ遠くから眺めているしかできない、という感覚がありました。速度というものは上がれば上がるほど興奮が促される麻薬のようなところがあると思います。その加速によってハイになっていくような感覚に対して、なんらかの批評性がほしかったのかもしれません。それはたとえば、もはや観客がせりふを聞き取れもしなければ俳優のアンサンブルも成立しえないような、パフォーマンスの破綻までアクセルを踏み込む、ということだったかもしれませんし、えげつないぐらいの「遅さ」が突如として差し挟まれるということだったかもしれません。速度を際限なく競っていくような現代のメディア環境においては、人間の生身の肉体という限界を宿命づけられている演劇を選ぶことそのものがすでにある種の批評性を帯びているとも思いはするのですが。余談ですが、わたしが以前一緒に作品づくりをしたやんツーさんというアーティストは、あるとき加速の中毒性にぞっとしないものを覚えた結果、速度を追求するべく生まれたミニ四駆を限界まで遅くするという作品(『近代的価値から逃走する』)をつくっていました。メディアアートの領域でテクノロジーとずぶずぶの共犯関係にあった彼が「遅さ」に転向したことにわたしは共感しましたし、なにより彼の遅いミニ四駆はすばらしく愛らしいものでした。

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撮影:守屋友樹

和田​ながら 氏

 

この文章を書く前日、自分にしてはかなり珍しいことに、スポーツのテレビ中継を見てずいぶんと夜更かしをしてしまいました。その試合では、自分と同い年の選手と20歳の選手がチャンピオンを争って熾烈なラリーを繰り広げていました。一進一退の、手に汗握る展開。わたしは同い年の選手に肩入れして応援をしていたものの、最後には20歳の選手が押し留めようもない勢いで勝利をさらっていきました。その光景に爽やかさを覚えるのと同時に、20歳に同い年が負けるのはどうにも悔しい、という、あられもなく正直な思いがわきあがりました。 そう、悔しかった。そのせいでちょっと寝付きが悪くなるくらいは。そして、ということはつまり、たぶんわたしは、ひとまわり以上も年齢の離れたみなさんに寝不足になるくらいの悔しい思いをさせられたくってこの京都学生演劇祭の審査員を引き受けたんじゃなかろうか? と、おおいに飛躍も含んだ、しかし奇妙に腑に落ちる、現時点での結論に達しました。 たとえば、こんなに巧みな上演をやってしまうなんて、とか。あるいは、こんなにわけがわからないにもかかわらず異様な説得力をそなえたモノをつくってしまうなんて、とか。なんてったって自分も20代とバチバチにやりあえると思っているからには、そんなことを思わされる作品を見たら悔しいに決まっているし、そして、もっとも悔しい思いにさせられたところがもっとも評価されるべきだと考えます。 めちゃくちゃおもろいものを見て、めちゃくちゃ悔しい思いをしたい。ので、めちゃくちゃ楽しみにしています。

プロフィール

京都造形芸術大学芸術学部映像・舞台芸術学科卒業、同大学大学院芸術研究科修士課程修了。2011年2月に自身のユニット「したため」を立ち上げ、京都を拠点に演出家として活動を始める。主な作品に、作家・多和田葉子の初期作を舞台化した『文字移植』、妊娠・出産を未経験者たちが演じる『擬娩』などがある。美術、写真、音楽、建築など異なる領域のアーティストとも共同作業を行う。2018年より多角的アートスペース・UrBANGUILDのブッキングスタッフ。2019年より地図にまつわるリサーチプロジェクト「わたしたちのフリーハンドなアトラス」始動。NPO法人京都舞台芸術協会理事長。

二口大学​ 氏 

Aブロック

 

ヨルノサンポ団(U30)『とりかご』

最初の道具立てで大体の話を予想してしまう。

が、だるまさんが転んだで始まったのは面白い。ココは足を縛られているので範囲が決まっていてそれ以上いけない。転んでは起き、また転んでは起き。遊びで心の範囲を描いていてなるほど、と。

母が外から帰ってくる。悪魔が下手だから下手から来るのかと思ったら奥から。母は悪魔ではなかったか。

誕生日プレゼントに海の絵本をもらう。この道具立てはちょっとわかりやすすぎるか。絵本の中身で先を見てしまう。

ただそこを補っているのが台詞の良さ。電車の音が何かが壊れる音だったり。朝陽が怖いとか。短いがハッとさせられる。

母の演技が気になる。母子の具体性が書かれていないためだ。書いて欲しかった。そこが母の演技の手掛かりとなる。共感が浅くなる。「母」という役名と具体的な「姓名」が付くだけでも随分変わる。だが母の演技の中にあるマグマのようなエネルギーが死に向かわせていくところは納得いく気がした。抑えた演技に徹した演者さんの底力を感じた。

あとココが母を置いて海へ行くところが気になった。ここは非常に重要な場面。自身から、母からの旅立ちともいえる。この葛藤は深くあるべきではないか。すんなり行き過ぎている気がした。ご一考願いたい。

芝居の構成としてテントの特性と場所性を十二分に取り入れていて素晴らしかった。

 

ひゅーまんシアター『本当だって』

ミステリー仕立てのように進行していく流れは演技の質もあってかハラハラした。

が、やや全体が間延びした印象。丁寧にやろうという気持ちがそうさせたのかもしれない。短い台詞が多いという性質上テンポよくし、勢い喜劇的に作る方法もあったかもしれない。

まず父の誕生日をそうじゃないと言い張るエネルギーが必要な気がした。無茶苦茶な言いがかりなので無茶苦茶な力があってもよい気がした。→作品意図はホラーのようなのでテンポの良い喜劇性は当たらないかも。私の誤読である可能性大。

ただホラー仕立てを際立たせていくには一人一人のベクトルを変えていく必要を感じる。それぞれがそれぞれの役割で父を追い詰める。総力戦ではなく、個別に。これは総力戦より難しい。書かれていない独自の理屈を立てないといけない。が、ここにチャレンジしていただきたく。

また台詞が飛んだかに見える瞬間があったがお互いでカバーしあっていた。チームワークの良さを感じた。まだまだ伸びしろがあると思う。今後に期待。

 

劇団透明少女『身毒丸』

身毒丸のオープニングの台詞のエネルギーがすごかった。どえらい芝居が来たと思った。の、後のでんぐり返しで次のシーンへ。入りは気持ちよかった。

が、この後からは暗転が多かったのは残念。出来る限り暗転をつぶしてみてはいかがでしょう。暗転は芝居全体の尺に対するリズムだと思ってよいのでは。多用すると観客が芝居の時間の先を行ってしまう可能性あり。優先順位をつけられてはいかがか。

しかし俳優がとにかく上手いと感じた。台詞回しが抜群に良い。なぜあんなにきれいに発語できるのか。どのように稽古しているのか教えてほしいぐらい。特にメインの俳優さんたち。

身毒と継母の藁人形のシーンは強いエネルギーに満ちていた。とくに継母の卒塔婆をなぐりで打ち付けるところは客席で観ていても恐ろしかった。あのエネルギーはなかなか出せるものではない。秀逸。

ただ、全般的に気になってしまったのは演技の質、形だ。何か、誰かモデルがいるのか。ある種のスタイリッシュさを感じた。勿論それ自体悪いことでも何でもないが、少し気にかかる。なぜなら、演技が、それ自体が目的に見えてしまった。必要なのは、何故あの演技にたどり着いたのかということ。雰囲気やノリだけで演技を決めてしまうのは危険。やっていて気持ちよさはあるかもしれないが、言葉の奥にあることにたどりにくくしてしまう可能性あり。

演技を考えるときに必要なのは逡巡なのだと思う。本当にこれでよいのかという懐疑。この戸惑いが演技を深めていくのではないか。

高い高い技術を持っているだけにより高みを目指していただきたい。

最後に道具について。上手に将棋盤、下手に碁盤。ただし両方ともに将棋の駒。お粗末すぎ。先ほどの卒塔婆に六寸くぎを打ち込むのも藁人形が吹っ飛んでいて叩くのが目的になっている。道具一つでも演技が変わってくる。ご一考願いたい。

 

 

Bブロック

 

劇団フォークロア『サリとルーの千と一の幻夜たち』

狂言回しが回していく三つの物語。

まず目に入るのは空間を埋める舞台美術。そして作りこまれた衣装。わくわく感がすごい。ただ実際始めると少し違和感が。宇宙空間が舞台になっているのに部屋の美術とは。いっそ抽象度の高いものでもよいのでは。狂言回しが隠れるためや衣装替えだけに机や本棚が置かれているのだとしたら必要ないのでは。(ほかの理由があったらごめんなさい)狂言回しは自由にどこでも行き来できるので客席に座るでも、舞台上で見えていても。ご一考願いたい。

演技は狂言回しがとにかく引っ張っていく形。声量もあり聞きやすく、三つの物語の内容とは裏腹に明るい。サリが上手くいかないことばかりにあっていても。

ラスト近く「もしも心が無かったらさ、誰も苦しまないのにね。人間って、ばかみたい。でも、だからこそ、美しいのかな。」という台詞。

狂言回しのこの台詞に尽きるのだろう。作者はきっと人間賛歌がしたいのだ。

ここに行き着きたいのだろう。

しかし本当に狂言回しは必要だろうか。人間が馬鹿で、美しいを観客に思ってもらうには他の方法はなかったのか。そこを考えてもらいたい。

俳優さんたちは落ち着きを持ち丁寧に演技されていたと思う。その良さをもっと引き出してみてはいかがだろうか。今後に期待。

ただ依存する私、心底人を愛せない私、相手を利用する私、三つの物語は全て心に刺さりました。痛い。

 

青コン企画(仮)『贋作E.T. の墓』

最初の代表の挨拶は本当なのか。芝居の一部か。芝居を観ていくうちに信じられなくなってくる、と思ってしまう。ただ、言葉には魂が宿るという。

モノリスがカッチット穴に装着されるとゲームの始まりだ、と言わぬばかりに男三人の言葉遊びの嵐が吹き荒れる。「ばひょおおう、びひょおおう、ぼひょおおう」。どこか懐かしさを感じるところがある。

とにかくエネルギーがすごい、スピード感が半端ない、出てくる遊びのモチーフが多い。80年代的要素を感じる懐かしさ。

三人の身体的リズムが荒々しいながらも合致していた。これを獲得するのは並み大抵のことではない。稽古量を想像する。

道具立ても俳優の可動域を想定しての道具作りになっていて上手い。スタッフワークの良質さを感じる。特にシャベルと衣装の使い方が秀逸。

ただこの先を考えると今のままでよいのかどうか。

荒々しさをどう整えていくのか。勢いを殺さずに台詞を成立させていくにはどうすべきか、等課題はありそうだ。また俳優個人にこの部分を委ねるのか、はたまた劇団としてメソッド化していくのか。メソッド化してしまうと三人の個々の良さが抑圧されてしまう気もする。今の三人の自由度は優先されていいようにも見受けられる。

最後に、ただ、早すぎる気がした。

 

後付け(U30)『丸ゴシック定礎』

頭がカチカチだったので救われた。

とにかく笑った。

身体の表情が面白い。

ゆるゆるしてて中心がなくて。

立ってるだけでなんか楽しい。

そんなにシャチ見たいん?持っていかれた。

講評無理です、すみません。

あ、配ってた紙、使わないと予想してたけど、ちょっと使ってて、やられた。

ただの感想です、ああ、ごめんなさい。

 

Cブロック

 

演劇ユニット日光浴『こたへさがし』

こた「へ」になっているのは、何か理由があるのか。なんしかタイトルが示唆が大きい気がした。広毅の紅葉への告白から始まる、晴翔と綾香の行き場のない気持ち。それと赤鬼を手助けした青鬼の寂しさがシンクロする。

俳優さんの舞台上での距離感や同線の作り方など丁寧な作業が施されていた。空間構成が上手。演技も声を張りすぎず適切な距離感で対話していた。些細な、と言っては登場人物に失礼かもしれないが細やかな嫉妬心を内に持ち相手に真正面に向いて話す芝居は好感が持てた。

この作品には続きが必要な気がした。というよりそここそを描いて欲しかった。晴翔と綾香に起こった居場所を失うかもという大問題に直面し彼女彼はどう乗り越えていくのか。そのことに正面から愚直に向き合って何らかの「こたえ」を出してみてほしい。それがどんなものでも構わない。なんしか出すことが重要な気がする。ご一考願いたい。

先ほど演技に好感が持てると言ったが、あえて言えばもっと個々人の俳優さんは自身が抱えている問題を他者に受け渡してもよいのではないかと思う。というのは、自身の中で起こりうる変化をはじめから自身の中で決めすぎている気がするから。相手から影響を受けていない。受けることを拒んでいるように見える。ここはとても勿体ない。

俳優は、というか人は他者から何かを受け取り変化していくものだと思う。

それを舞台上でも実践していただけないでしょうか。

自身のみで完結しないという勇気が必要かもしれない。何故なら確かに「変化」は怖いものだから。

 

らせんの目『密度の実験』

ビードロさんと堀さんの出会いとこれから何かがスタートしていくのかな、というお話かと思った。

月の彫刻が舞台奥上下に置かれて、上手に椅子、下手にマイクとギター。

朗読と歌とで進行する。

ビードロさんの高音と堀さんの低く静かな声。

あまり表情が読めないビードロさんと終始憂いに満ちた表情の堀さん。

この対比が不思議な緊張感をもって時間が紡がれていく。

演技と言っていいのか。正直よくわからなかった。

が、なぜか堀さんの姿に見入ってしまった。何かある。何か大きな感情が支配している。これは何なのか。この世に生を受けたことに対する憂いなのか。

が、何かはある。理屈ではないこの手触りにぞくぞくした。

とにかく磁力がすごい。

あるとてつもなく大きな感情をもって立っているだけ。演技の理想を見た気がした。

勿論これは言いすぎな気もするが。

だがしかし美しいものがそこには確かにあった。

 

劇団FAX(U30)『てんとう』

6号棟、商店の店頭、てんとう虫という言葉の散らばり。演劇祭のテントという場所を前提とした、12年前に迷子になった少年の話。

ガマの油売りから勇気のあかしのキーホルダーをもらい家に帰ろうとするが帰れない。さっちゃん、おねしょおじさん、怪盗カトウ君、ゲコゲコいうカエルらに阻まれる。おねしょ布団の暗闇の先に少年の帰る6号棟はあるのか。帰れるのか。

とにかく台詞回しが早い。俳優の動きも早い。演出的けれんもあり、展開も早い。

舞台も平台一枚分の上りと黒布、短剣に鈴。限定された道具立てのみで世界を作るには相当の覚悟がいる。見事だ。

この暑さの中俳優の体からほとばしる汗と飛沫に感動した。ここまでやられると圧巻だ。

ただ、その感動を持ってしても気になったのは、俳優間の身体性のばらつきだ。

具体的に言えば、その速さに俳優自身が追い付いていない点が見受けられたことだ。台詞回しが追い付いていない、故に身体ともずれる。このずれが俳優間のコンビネーションに影響してけれんがいいタイミングで決まらない。空間に強度が見えない。

舞台は俳優が最前線に立って観客に対峙する。その俳優から連帯した強さが感じられないと作品性が揺らいでしまう可能性があるのではないか。

誤解を恐れずに言えば、おそらく必要となってくるのは俳優に共通のメソッドではないか。

台詞でいえば節回し、音圧の調整、ブレスの共有。

体でいえば腰の位置をそろえる、足の運びをルール化する、上半身の可動域を限定する、などなど。

俳優が出来上がるには時間を要する。一日にしてはならない。俳優を固定化し、メソッドを共有し、空間的に強い芝居作りに期待いたします。

審査員二口.JPG

二口大学​ 氏

この度審査員を承りました京都で舞台俳優をしております二口大学と申します。 私のようなただただ長く芝居をしているだけのポンコツが審査員をさせていただくなど大変烏滸がましいとは思ったのですが、学生さんからのご依頼ということを伺いちょっといやいやかなり嬉しくなって思わず小躍りしてしまいこれまたついついうっかりとお引き受けをさせていただきました。 というのももう随分昔、30年以前になりますが私自身も学生演劇の舞台に立っていた者なのです。ですのできっと皆さんの勇姿をかつての自身に重ねながら拝見することになるのではないかと思っております。ちょっとそら恐ろしい気もするのですが。 まだまだ暑い時期での開催ですね。 きっと舞台上の皆さんの額や身体にはきらめく汗が滲み噴き出し、そしてそれが格闘の末の創作の苦しみや楽しさを現していることでしょう。そしてそして口から飛び出す何万という粘っこい飛沫が皆さんの叫びや呪いや歓喜を吐き出していることでしょう。 それを畏れと期待を持って覚悟して目撃したいと思います。 それでは当日を楽しみにしております。

 

プロフィール

二口大学(ふたくちだいがく)

舞台俳優。劇団このしたやみ、広田ゆうみ+二口大学に参加し全国を旅しロシアやポーランドでも公演を行ってきた。京都役者落語の会のメンバーでもある。

ジュリエット・礼子・ナップ 氏 

Aブロック

 

ヨルノサンポ団(U30)『とりかご』

この作品は、屋外劇場をうまく利用していた。劇場の後ろのカーテンを開けて外を見せ、照明で浜辺のように見せた。ラストシーンでも、浜辺に夕日が沈んでいるように見せる照明が使われていて効果的だった。近くを通る電車の音もうまく作品に取り入れられていた。パフォーマーは力強く、ブロッキング(例えば最初と最後の“だるまさんが転んだ“のシーン)も良かったが、作品が児童虐待や薬物乱用という非常に重いテーマを扱っており、主にリアリズム演劇の作品として、登場人物の深さや背景が必要だと感じた。

 

ひゅーまんシアター『本当だって』

脚本は難しいが興味深いテーマを扱っていた。家族関係における心理的虐待、極端なガスライティングがもたらすものや記憶の虚偽性。演出面では、家族が食卓を囲むという日常的なシチュエーションが、少し調子の狂った演技スタイル、まばらな音響、青い照明、母親の黒い衣装と効果的に対比されていた。これにより、作品全体を通して静かでサスペンスフルな展開となった。しかし、ほとんどリアリズム演劇であるため、母親の行動の原動力となっているものがはっきりせず、登場人物同士の関係の進展も弱い。脚本、演出、演技の面で観客にもっと複雑さと深みを与えるように発展させるか、作品全体がこの現実的なスタイルから離れてもっと実験的になる必要があると感じる。例えば、舞台中央にテーブルがあり、全員がその周りに座っているのは制約ができてしまったと感じた。舞台セットを変えることでパフォーマーの動きでもっと実験的な試みがあってこれで遊んでみてもよかったと感じた。

 

劇団透明少女『身毒丸』

この作品はパフォーマーの力強い演技とともに、よく演出されていた。演出面では、最初のモノローグ、新しい妻を選ぶシーン、少年を光の中に運ぶラストシーンなど、重要なシーンを際立たせるために舞台中央が効果的に使われていた。また、最後のシーンでは、初めて後ろのテントのカーテンが開いて外が見えるようになり、作品の力強い終わりの演出だった。しかし、今ここで岸田理生『身毒丸』を上演することにした理由が見えにくかった。過去に何度も上演されている有名な作品なのだから、この時期にこの場所で上演するには、もっと強い理由が必要だと感じた。

 

 

Bブロック

 

劇団フォークロア『サリとルーの千と一の幻夜たち』

ポテンシャルがある脚本と感じた。自己と他者というテーマを深く探求し、観客にも直接語る、力づよく突き詰める脚本でした。実験的なノンリニアな方法で、複数のタイムラインが描かれていた構想も興味深かった。明確なセリフ回しと演出も演技も力強かったが、シーンによっては演技が少し過剰に演出されているところも感じた。また、リアリズムではない身体性やブロッキングを試すことで、脚本にもっと余裕を持たせることができたのではないか。衣装は細部までよく考えられていたが、同じようにセットで遊ぶ可能性がもっとあったと思った。

 

青コン企画(仮)『贋作E.T. の墓』

SF映画のリメイクを舞台でやるというのは、確かに挑戦的な選択だが、とてもうまくいった。最初に2人の技術スタッフが、後に作品全体のセットとなるE.T.とちらっと読めるラベルが貼られている大きな黒い箱(VHSカセットやゲームのように見える)を持ち出し、舞台の中央に立てる。このシーンは賢くメディアに対する私たちの考えを翻弄し、作品が低予算の演劇作品で大ヒット映画のリメイクをやっていることを自認させる。パフォーマーの発話や身体能力も印象的で、シームレスに連携し、役柄に完全にリラックスしている。タイミングと繰り返しの使い方が上手に使われる、ユーモアを生み出したり、また黒いはこしかない舞台上に砂漠、空と深い穴、広い世界観を観客ととても上手く共有できてる。批評すれば、この作品は興味深いが、このスタイルと形式をどこまで持っていき新たな発見ができるのかが少しみにくかった。

 

後付け(U30)『丸ゴシック定礎』

この作品は、いくつか短い実験的なコメディ・スケッチだった。日常的なシチュエーションや会話を題材にしたその多くは、一見単純に見えるが、人間関係や人間性の不満や喜び、あるいは平凡さをあらわすことが多い。このカンパニーはわかりやすい笑いやコメディを追求していないので、観客の笑いもシーンによって違う。全員の観客が全てのシーンを面白いと思うことは多分ないからこそとてもいい攻めているラインを探究してると感じる。観客も試され、見ながら興奮する。

 

Cブロック

 

演劇ユニット日光浴『こたへさがし』

この作品は発話のテンポが良く、自然な会話としてよく演出されていた。また、作品は細部まで丁寧に作られていた。しかし、ブロッキングや身振りの演出にもっと可能性があったと思う。役者の顔や表情が見えない横顔が続いて、ほとんどリアリズム演劇作品としてはもう少し演出が必要と感じた。もちろん、これは意図的な演出上の決定であることもあるが、そうとは感じられなかった。また、「現実」の世界と「鬼」の世界は並行して描かれて、舞台上で距離的に離れて進んだ。例えば演出、ブロッキングでこの二つの世界をもっと混ざりあう方法なども探ってもよかったと思った。

 

らせんの目『密度の実験』

生演奏、彫刻、テキスト、リサイタルを組み合わせたこの作品は、力強いシンプルな構成で、思い切った実験的な作品だった。テキストは詩的かつコンセプチュアルで、明らかに野外である会場を意識して書かれたもので、空や月、星を引用したものだった。テキストは観客に独自の解釈の余地をきれいに与えていた。二人のパフォーマーは、互いに素晴らしい存在感と並置を見せ、自己反省的であると同時に観客にも直接問をかけるものだった。 

音も非常に効果的に使われていた。録音された口笛、舞台上の口笛、生演奏、録音された声、車の音。生音と録音された音が混ざり合い、ループし、劇場の外の音と組み合わさることで、内と外、何が現実で何が現実でないかを問いかけ、テキストが問いかけることと相まって効果的だった。舞台セット、舞台上の2つの大きな黄色いボールは、テキストや出演者とほぼ同等の重要性を与えられていた。一見するとスポーツボールか、レモンか、月か?作品の途中、あるシンプルで効果的な動きでそれらを転がすと、口かくちばしがあることがわかる。テキストと同じように観客は幅広い独自な解釈が持てる。

この作品を批評すれば、生演奏の音楽に少し頼りすぎてる部分はあったと感じた。また、このカンパニーには、演劇やパフォーマンスで何が可能で何が不可能なのかを探求し、まだまだ色々実験し面白く遊ぶ可能性があると感じる。

 

劇団FAX(U30)『てんとう』

出演者のパフォーマンスはとても力強く、作品に高いレベルのエネルギーがあった。シンプルな舞台セットや小道具の使い方もクリエイティブだった。また、パフォーマーのセリフの発話も良かったが、全体を通してかなりハイペースだったため、観客が作品についていけてない部分もあったと感じた。作品をより良いものにするために、構成を少し再考し、より静かな部分やスローな部分をいくつか設けて、作品のテンポやペースでもう少し実験することを提案したい。

審査員ジュリエット.jpg

ジュリエット・礼子・ナップ 氏

様々な団体の作品を鑑賞するとともに、皆さんとお話したり、交流したりできることを楽しみにしています。 9月までお稽古頑張ってください!

 

プロフィール

1992年福岡生まれ。「KYOTO EXPERIMENT」共同ディレクター。イギリス・オックスフォード大学英語英文学科卒業。2013年にJETプログラムで来日し,静岡の小中学校で英語教師として働く。京都芸術センター,SPAC静岡県舞台芸術センターでインターンやボランティアとして活動したあと,Ryoji Ikeda Studio Kyotoでコミュニケーションマネージャー,音楽及びパフォーマンスのプロジェクトマネジャーを担当。2017年から「KYOTO EXPERIMENT」に所属し,広報とプログラムディレクターのアシスタントを務めた。

撮影:松見拓也

沢大洋 氏 

Aブロック

 

ヨルノサンポ団(U30)『とりかご』

夕方のチャイムなど、上演と同じくらいの時間帯のシーン。電車の踏切の音など、現実の音と劇中の音が混ざり合っていくシーン。劇場外の環境を見事に巻き込み、作品の迫力を底上げしていました。

扱っている題材やシーンから生々しさを匂わせますが、どこか切迫感のなさも感じました。母が倒れ、本物の水がトクトクと流れ落ちるシーンでは、幻想と現実の間に引き込み、一気に緊張感のある時間が生まれていました。それが、次のステップへ踏み出すヒントのひとつであると思います。

 

ひゅーまんシアター『本当だって』

表現したい形があり、皆でそれを共有して、一定のレベルまで高めた良作でした。言葉はなくとも、食器を並べるシーンや、暗転でうっすら見えるシルエットが綺麗で印象的でした。

幅広い年代の役柄を同世代のメンバーで演じるため、役と実年齢の違いが気になる場面もありました。それと野外舞台の特性上、常に劇場の外から気配がするので、室内のシーンとどう折り合いをつけ劇場の外をどう捉えるか、その2点について、それはチャンスにもなり得るはずで、その辺りの意識を深めていくとさらに良い上演になるのではないかと感じました。

 

劇団透明少女『身毒丸』

路上を歩くパフォーマンス、SNSからの発信など、この夏、同世代の関心を強く浴びた存在であったのではないかと想像します。

大音量の音楽の中でも的確に届く声、どのキャストの方も一定以上の魅力・世界観をもって舞台上に存在していて、見応えある上演でした。

「アングラを玉座に返す」というSNS投稿を見かけましたが、例えば、実際にその状態にするにはどういう劇団活動や上演を行えば良いのか突き詰めて考えていくと、よりおもしろい事が起こせるのではないかと感じました。チャレンジを期待します。

 

 

Bブロック

 

劇団フォークロア『サリとルーの千と一の幻夜たち』

雨が降り、その自然のダイナミックさと、少しオーバーに感じた演技が良くマッチして説得力を増していました。サリの演技体について他の演者と違いを感じましたが、それゆえにまっすぐ気持ちが届き、うまく調和が取れているように感じました。演劇に関わるのが初めての方がほとんどだったようですが、歪さをそれぞれが補い合い、一つの作品として良くまとまりを得ていました。

実験を謳っていましたが、どのような実験が行われたのがあまりわからなかったため、そこが伝われば、作品や、劇団の活動にもっと感情移入できたように思います。さらに大胆な実験をこれからも行っていってほしいと思います。

 

青コン企画(仮)『贋作E.T. の墓』

役者の愛嬌やまっすぐな熱意ゆえか、始まってすぐに観客を味方に付け、劇世界に巻き込んでいたのが印象的でした。すごい運動量でしたが、それでも言葉もしっかりと飛んできて受け取りやすかったです。たまに登場する詩的表現や、モノリスや自転車で空中にいるシーン、穴掘りのシーンの上と下のジェットコースターのようなスリリングさ。私が観た回では、輝く点がいっぱいあるのに点と点がなかなか繋がって連鎖していかないモヤモヤも感じました。

全体に通じる荒々しさ、緊迫感が作品を底上げしていたようにも思います。次の上演では、ある意味で完成度を上げず、輝きが連鎖し、無限の穴の暗がりやどこまでも続く空の高さなど、イメージがより飛躍していく様を期待しています。

 

後付け(U30)『丸ゴシック定礎』

おもしろいと感じる場面と、おもしろさを感じられない場面がそれぞれありました。どちらにせよ、俳優が魅力的で肩の力を抜いてみていられる心地よさがありました。

他の観客と笑うタイミングの違いがあり、それが新たな見方の発見に繋がり、そして舞台上の演者と1人の観客という関係性から、観客同士の関係性も生まれているように感じました。

雨も良いリズムを生み出していて、終演後は憑き物が去っていくような爽やかさが自分の中に残りました。

Cブロック

 

演劇ユニット日光浴『こたへさがし』

現代と絵本の世界を交錯させ、身近な事象をより立体的に、より深みを持ってみせようとされていると感じました。その2つの世界が干渉するようでせず、頭の中で像を結ぶまでに時間がかかりましたが、アプローチとしておもしろく感じたので、物語や空間構成で、2つの世界がもっと交わることがあると良いと感じました。暗転をなくし、リズムよく、かつ演者の方が役柄を丁寧に演じようとしている姿に好感を持ちました。

 

らせんの目『密度の実験』

演者や空間が一番輝いていると感じた上演でした。審査基準として新たに加わった「今この瞬間に命が輝いているか」を体現していたと思います。

野外の空気感と月のオブジェ、歌がマッチして、上演後も何度も思い返しています。

舞台に立つことの苦しさや難しさをちゃんと持っているからこそ、それでも舞台に立つ意味をしっかりと背負い、だからこそ生き生きと感じるのだと思います。

 

劇団FAX(U30)『てんとう』

6号棟跡地という場所、そして野外環境を活かした上演でした。大量のセリフ、言葉遊びの連続からイメージが刺激されていきました。反面、脚本のおもしろさを上演が超えていかないもどかしさも感じました。

滑舌と声量、体のキレ、セリフのイメージを伝える力など、演者の力が強く求められる作品であると思いますので、それができる俳優を育てていくこと、そして、新たな出力方法を探っていくこと、今後の活動に期待したいです。

沢大洋プロフィール_edited.png

沢大洋​ 氏

京都学生演劇祭のプロデューサーを務めていますが、委員からの思いを受け、また、学生演劇祭がいつ終わりを迎えてもおかしくない過渡期であるという認識から、学生演劇祭の向かう先についてもっと言葉にしていかねばとお受けすることになりました。 学生演劇祭の作品を観てきた数は誰よりも多いと思います。京都だけでなく全国学生演劇祭、そして他の都市の演劇祭も含め、おそらく300作品前後を観てきました。その中で衝撃を受けた作品は1,2作品だったと記憶しています。 今まで体感したことのないような衝撃的な作品を期待しています。そして、私が演劇祭を続けられている理由でもある「出会い」と「成長」を掴んでもらうことも期待しています。 異なる文化が出会う瞬間の目の輝きや、それを糧にして瞬く間に成長していく姿は、私にとって非常に眩しく感じます。 せっかく短い学生期間に学生演劇祭に関わることを選んだのですから、主宰の方はもちろん、スタッフも役者も、ぜひそれぞれが「出会うこと」とそれを糧にして「成長すること」を掴み取って欲しいと思います。実際、それが一番重要なことなのかもしれません。うってつけの機会であると信じています。

 

プロフィール


1983年隠岐の島生まれ。 学生劇団(劇団月光斜TeamBKC)から演劇を始め、京都ロマンポップ在団中、2011年に京都学生演劇祭を立ち上げ。2015年に全国学生演劇祭を立ち上げ。 役者としては『The Stars My Destination/星を継ぐ者』にて、第1回ブリュッセル国際映画祭(BIFF/10-11月期)最優秀主演男優賞、第1回南米賞(South America Awards)最優秀長編主演男優賞など。

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